
15.闇の帝王
ぼんやりと歪んだ視界で周囲を見回すが、辺りは暗くて何も見えない。夢うつつのまま何度か瞬きを繰り返すと、視界と同じようにぼやけていた思考がはっきりしてくる。
たしか…セブルスと仲直りをして、廊下で誰かに呼ばれた。備品を運ぶのを手伝ってほしいと言われて教室に入ったら誰もいなくて──そこでレイラの記憶は途切れていた。
何が起こったんだろう?ここはどこだろう……
少しでも状況を把握したくて顔を動かし、そこで初めて自分の体が動かないことに気付いた。太い縄によってレイラの体はふかふかと座り心地のいい椅子に拘束されている。抜け出そうと体をよじってみても縄が緩む気配はない。
「逃げようとしても無駄だ」
暗闇の中から人の声が響き、コツ、コツ、とゆっくりと足音が近付いてくる。聞き覚えのあるその声は、けれど聞き覚えのあるいつもの怯えたような喋り方ではなかった。
「……クィレル先生…」
「思ったより早いお目覚めだな、ミス・マルフォイ」
頭にターバンを巻き付けたクィレルが姿を現すと、一斉に松明に火が灯り、室内を明るく照らし出した。おかげでようやくレイラは自分がいる場所を見ることができた。
そこは円形劇場のような部屋だった。石造りの階段の続く先には黒い炎が燃えている。レイラがいるのはその階段を下りた場所に広がる開けた場所だ。そこにはレイラを拘束する椅子と大きな鏡だけが置かれている。
「ここは…?……私、手伝いを頼まれて…」
「君はもう少し警戒心を持つべきだな。あれは君を人気のない所へ誘い込むための罠だ。まさかあんな簡単に引っかかってくれるとは思わなかったが──くそ、この鏡は一体どういう仕組みなんだ」
レイラを鼻で笑い、クィレルは苛立った様子で鏡を覗き込んだ。レイラはその鏡は一度だけ見たことがあった。みぞの鏡。人の心の奥底にあるのぞみを映すという鏡が、どうしてここにあるのだろ?──というか、ここはどこなんだろう?
「ここはどこ?」
「ここは賢者の石が置かれた部屋だ。他の守りは全て突破できた……だというのに最後の部屋まで辿りついて、それでも石を取ることができないなんて!!」
自分がいるのがとんでもない場所なのだと分かり、再びレイラはその部屋を見回した。出入口らしき場所は黒い炎が燃えるアーチしかない。どうにか拘束を解いて逃げ出したとして、あの炎は普通に通ることができるのだろうか。
どうにかしてここから逃げ出せないか考えていたレイラだったが、ふいに一つの疑問が浮かんできた。
「どうして私はここにいるの?」
「私が連れてきたからだ」
食い入るように鏡を覗き込んだまま、クィレルは心ここに在らずといったふうに答えた。けれどそれはレイラの求めている答えではない。
「どうして私を連れてきたの?」
殺すだけならわざわざこんな所まで連れてくる必要はないはずだ。気を失わせた時にそのまま殺せばいい。それなのにどうして石があるというこの部屋まで連れてこられたのか……いくら考えてもわからなかった。鏡に夢中になっているクィレルはレイラの問いに答えてくれない。
ほとんど現状を把握出来ていないが、とりあえずクィレルが石を取るのに手こずっていることだけはわかる。多分さっきから彼が覗き込んでいる鏡に石が隠されているのだろう。それなら、クィレルの注意を逸らして彼が突破法を見つけられないように邪魔をするしかない。時間を稼げば誰かが助けに来てくれるかもしれない。レイラはクィレルの注意を引こうと声を張り上げた。
「セブルスはあなたが石を狙ってる犯人だって知ってるのよ。私が居なくなったって気付いたら、すぐに探しに来てくれるわ!」
「セブルスか…奴は本当に目障りだった……ことごとく私の計画の邪魔をしてくれた」
「当然よ、セブルスの方があなたなんかよりずっと優れた魔法使いだもの」
「何も知らない小娘が……まあいい。今度こそ邪魔はさせない。奴がここに到着した時には、私は石と君を連れて消えた後だ」
「なんで私まで?」
「君がいなくなったと知ったら、セブルスはどんな顔をするのだろうね?」
「……セブルスへの嫌がらせで連れていくの?」
「そんなわけないだろう」
ようやくクィレルがこちらを向いた。
ぞっとする程冷たい目を細め、椅子に座ったままのレイラを見下ろす。
「君のことをご主人様が必要としているからだ」
「……ご主人、様…?」
クィレルのご主人様。
彼が復活を手助けしようとしている、ご主人様。
椅子に縛り付けられたままの手の平に、冷たい汗が滲む。
「君は自分のことを何も知らない」
心臓が早鐘を打つ。
嫌だ、聞きたくない。知りたくない──自分でも説明のつかない、悪い予感が全身を駆け巡っている。
「自分が持つ特別な印の意味も、己がしでかした愚かな裏切りのことも。何も知らない」
「印?裏切り?何を、言っているの…?」
クィレルの言葉の意味が理解出来ずに眉を顰めるレイラを見下ろし、嘲り笑う。その瞳には憎しみと嫌悪の色が浮かんでいる。そんな目で見られる意味もわからない。
「クィレル…私が話そう」
突然、部屋の中に掠れた声が響いた。クィレルは口を開いていなかった。それなのに、その声はたしかにクィレルから聞こえた。その声を聞いた途端にクィレルは戸惑い、オロオロし始める。
「し、しかし……、この小娘は何を企んでいるかわかりません……あなた様が直接お話しするのは危険なのでは…」
「よい、此奴には私を傷付けることは出来ぬ……それにせっかくの再会だ。顔を合わせて話をするのが礼儀というものだ…」
「…………わかりました」
クィレルは頭に巻き付けている紫のターバンに手をかけ、それを解き始めた。彼が何をしようとしているのかわからず、レイラはただ怯えたままそれを見守る。
クィレルの頭を離れたターバンが、音もなく地面に落ちた。ターバンを外したクィレルの頭に毛髪は見られない。そして──彼が後ろを向いた瞬間、レイラは声にならない悲鳴を上げた。
クィレルの後頭部にはもうひとつ、顔がついていた。
人間とはかけ離れた異形の顔。狂気を孕んだ血のように赤い瞳。本来鼻がついている場所には二つの裂け目が空いている。あまりの恐ろしさに悲鳴を上げ、けれどそれから目を離すことができなかった。
これが、この人が、十年前魔法界を恐怖で支配したヴォルデモートその人だというのか。その赤い瞳が、悲鳴を上げたきり動けずにいるレイラをとらえた。
「レイラ……」
クィレルの後頭部の口が動き、掠れた声が響く。
ただ名前を呼ばれただけなのに、恐ろしさに全身が総毛立つ。クィレルを相手にしていた時とは比べ物にならないくらいの恐怖で、口を開くことすら出来ない。
ヴォルデモートの赤い瞳が細められる。
「私の元へ帰ってくるのだ…レイラ…」
レイラはふるふると首を振り、赤い瞳を見上げた。言葉の意味はわからない。けれど頷いてはいけないことだけはわかった。
言葉を紡げずにただ首を振るレイラを見下ろすヴォルデモートの瞳が、ぎらぎらと不気味な輝きを見せる。
「気の毒なことよ…己の事も分からず、正しい場所へと導いてくれる者もいないのか…」
「さ、さっきから、…何を、言ってるの……」
恐怖に震えながらなんとか口を開いた。やっとの思いで発した言葉は弱々しく、消え入りそうな程に小さなものだったが、ヴォルデモートにはしっかりと届いたらしい。
「真実を知りたいだろう……私の元へ来い…そうすれば全てを教えてやろう」
「──……いやよ」
小さな拒絶の声は、思ったよりはっきりと室内に響いた。
こわい。逆らえば殺されるのだろう。それでも、レイラは頭に浮かんだ大切な人達を裏切るようなことはしたくなかった。
ドラコ、ルシウス、ナルシッサ、アブラクサス。大好きな家族。
セブルスとルース。いつも見守ってくれる大好きな人。
ハリーやハーマイオニー、セドリックやパンジー…学校でできた大好きな友達。
「私は大好きな皆のことを失望させたくない。あなたなんかの……あなたみたいな悪い魔法使いの仲間になったら、皆を裏切ることになるもの……そんなの、絶対嫌だわ!」
きっぱりと告げたレイラの言葉に、何故かヴォルデモートは愉快そうに笑い声を上げた。予想していたものと違うその反応にレイラはただひたすら困惑した。
「レイラ……あぁ、憐れな我が贄姫よ」
どくり、心臓が大きく脈打つ。
ヴォルデモートはくつくつと笑いながら顔を寄せた。
こわい。こわい。逃げ出そうともがいてもレイラを縛る縄は緩むことはなく、鼻先が触れ合う程の距離で赤い瞳が笑った。
「全てを隠され、騙され、それを疑うこともない……なんて愚かで憐れな姿だ…」
ヴォルデモートの吐き出す息が顔にかかる。あまりの恐ろしさから少しでも逃れようとレイラはぎゅっと目をつぶった──その瞬間、同時にいくつものことが起こった。
体の中から何かを無理矢理引き摺り出されるような感覚。そして、バチッと大きな音と共に閉じた瞼の向こうで強い光が瞬いたのがわかった。
引き摺り出されるような感覚を味わった途端に全身を強い疲労感が襲い、レイラはぐったりと体を投げ出した。きっと縛り付けられていなければ椅子から滑り落ちていただろう。一体何が起きたのかと目を開けると、すぐ近くにいたはずのクィレルの体は遠くに倒れ込んでいた。
「僕のものに触らないでくれるかな」
左肩に触れた重さに驚いて見上げると、レイラの横には一人の青年が立っていた。この部屋には人間の形を持ったものはクィレルとレイラしかいなかったはずだ。どこから現れたのだろう。それに、その横顔はどこかで見たことがあった気がした。
けれど考えようとしても体も頭も動かない。まるで何日も飲まず食わずで走り続けたかのようなとてつもない疲労感に目眩がする。
「今の僕が出来ることは限られている。だけど絶対に君を守るから──安心しておやすみ」
青年はレイラにだけ聞こえるように、小さな声で耳元に囁く。最後の言葉を聞いた途端、意識が飛びそうになり、レイラはぐっと下唇を噛んで耐えた。こんな危険な場所で、こんな訳が分からない状況で意識を手放すことがどんなに愚かなことかくらいはわかる。青年はそれを見て溜め息をついた。
「本当に君は僕の言うことを聞かないな…ここで無理をして、後で倒れても知らないよ」
最後に「……ごめんね」と呟き、レイラを背後に庇うように一歩踏み出した。体を起こしたクィレルが警戒するように距離をとったまま、再びヴォルデモートが顔を向ける。
「貴様は…何者だ…?」
「お前に説明する義理はないね。僕の可愛いレイラに対して随分と好き勝手に言ってくれたじゃないか。憐れなのはお前の方だ」
青年は金色の瞳を細め、鋭い視線で目の前のヴォルデモートを睨み付ける。その言葉にヴォルデモートの顔が怒りで歪んだ。
「いつまでもそんな惨めな姿で生にしがみついて……みっともないったらないね」
「なにを……貴様は記憶≠ゥ…?いや、違うな…貴様は何者だ? 何故レイラの傍にいる?」
「二度も言わせるな。お前に説明する義理はない」
レイラはぼんやりと青年の後ろ姿を見上げたまま二人の会話を聞いていた。ヴォルデモートに怯えることもなく会話をするこの青年は何者なのだろう。とりあえずレイラの敵ではなさそうなことだけはわかった。
「お前が受け入れることを拒絶し、未だに理解することができずにいるものを僕は持っている……この子の隣は、僕の場所だ。さっさと消えてくれないかな、死に損ないの幽霊風情が」
「貴様…っ!!──クィレル!!」
激昂したヴォルデモートがクィレルの名を呼び、それを受けてクィレルが杖を構えた。だが、杖先から放たれた赤色の閃光は何故かレイラのすぐ目の前で弾けて消えた。
まるでレイラの全身を覆うように淡い光が包み込んでいる。もう一度クィレルが杖を振るが、やはり閃光はこちらに届くことなく光にぶつかり、弾ける。
「何故だ…!?一体何をした!?」
クィレルが戸惑いの声を上げるが、それに答える声はない。いつの間にか青年はいなくなっていて、レイラもクィレルと同じように戸惑いの表情を浮かべた。
「時間稼ぎくらいは出来たみたいだね。さぁ、ヒーローの登場だ」
再度聞こえた青年の声はクィレル達には聞こえていないらしい。直後、黒い炎が大きく揺らぎ、クィレルの意識はそちらへ向いた。
……だめだ。もう限界かもしれない。
声がどんどん遠くなる。
遠く、意識が薄れていく……
レイラの霞んだ視界に、黒い炎の向こうから現れたくしゃくしゃの髪の男の子が映った。
──あぁ、また助けにきてくれた…
いつだったか、トロールに襲われた時も助けに来てくれた。
魔法界の英雄、生き残った男の子──そして、レイラの大好きな友達。
「……、ハリー…」
「レイラ……!?──まさか、そんな…あなたが…!?」
レイラを背にして立つクィレルの姿に、ハリーが目を見開いた。ハリーのいる場所からでは、後頭部にある顔は見えない。彼はヴォルデモートがこの場にいることにまだ気付いていない。
危険を知らせなくちゃ。
「ハリー、ハリー…逃げて……」
レイラの掠れた小さな声はハリーまで届かない。
ハリーはクィレルと話しながらゆっくりとこちらに近付いてくる。目の前にある赤い瞳が、残忍な色を浮かべて歪められた。
こっちに来たらだめ…殺されてしまう…
伝えたいのに、体が動かない。
また、何もできない。
悔しさで大粒の涙を流しながら、レイラの意識は薄れていった。
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