
16.記憶の欠片
「話を始める前に──場所を変えよう」
「へ?」
軽い口調でそう言われ、どんな話が始まっても受け止めるぞと気合いをいれていたレイラは思わず間抜けな声を出してしまった。リドルはそんなレイラを見ておかしそうに眉を上げる。
「まずは着替えを済ませてしまおう。さすがに寝巻き姿で出歩くのは感心しないからね。ほら、いつまでもボケっとしていないで」
リドルの言葉に困惑しながらも促されるまま起き上がり、クローゼットから制服を取り出す。ついさっきマダム・ポンフリー達がパジャマに着替えさせてくれたばかりなのに。レイラはシャツに腕を通しながらリドルを見上げた。
「なんでお話するだけなのにわざわざ出掛けるの?……というか、今は生徒一人で出歩いちゃダメなのよ」
「僕もいるから一人じゃないだろう?」
「そうじゃなくて!他の人にはリドルは見えないんだから、きっとお外に行こうとしたら止められちゃうわ」
上級生になると生徒によって受講しない授業もあり、その空いた時間は自由に過ごしていいことになっている。普段なら談話室でお喋りをしたり勉強したり、図書室へ行く者、気分転換に校庭を散歩する者と思い思いに過ごすのだが、生徒だけで外出ができない今は必然的に談話室で過ごすことになる。レイラが談話室から出て行こうとしたら間違いなく止められるだろう。
「それなら問題ない。ルースがクリスマスに贈ってきた本を持ってきてごらん」
「クリスマス……これ?」
ネクタイを結ぶ手を止め、本棚から一冊の本を取り出す。今年のクリスマスにルースがくれたその本は紆余曲折ありつつも最後は大団円で終わる文句無しのハッピーエンド。そんなありふれた王道の恋愛小説だ。
「一番後ろのページを開いて──そう、そのページを杖で三回、七回、二回のリズムで叩くんだ」
言われた通りにコツコツコツ、と叩くと本は淡く光り、薄紫色の遊び紙が本から切り離されて空中に浮かび上がる。驚きながらそれを手に取ると、遊び紙は手のひら程の大きさの長方形の紙へと姿を変えた。
「これ、なぁに?」
レイラはその紙をまじまじと見つめながら首を傾げた。漢字とルーン文字が綴られているのはわかるが、どちらも読めないせいでどういう物なのかはさっぱりわからない。
「これは使用者の姿を隠す札だ」
「姿を隠す?」
「そう、『消す』んじゃなく『隠す』ものだ。そうだな…透明マントと同じような物だと思えばいい。周囲から姿を隠すことはできるが声を出せば聞こえてしまうし、ぶつかれば気付かれる」
「すごい便利じゃない! なんでもっと早くこれのこと教えてくれなかったの?」
透明マントと同じ性能の札があるなら、アラゴグの所へ向かう道中で三人で足を何度も踏んづけ合いながら透明マントに入って歩くことはなかったのに。それにこっそり抜け出してユニコーン達に会いに行くこともできたはずだ。
「この札は透明マントと違って使い捨てだ。効果も一時間と制限がある。くだらないことに使うべきじゃないだろう」
「うー…じゃあもっとこの本を買えばいいんじゃない?」
「これはルースの手作りだ。本に付属してくるものではないよ」
「ルースが作ったの? こんな凄い物作れるなんて全然知らなかったわ」
思わぬ言葉に目をぱちくりさせて札を見る。どうして今まで言ってくれなかったんだろう。もし自分がこんなものを作れたなら自慢して回っただろう。
「さあ、そろそろ出掛けるよ。その札は額に貼って」
「おでこ……これでいい?」
言われた通りに前髪をかきあげて札を額にぎゅっと押し付けると、不思議な膜に包まれたような感覚が全身に広がった。これが札の効果が発動している状態ということだろうか。
「なんか動く度に目の前でぴらぴらするの、すごく邪魔」
「文句言わない」
札は視界を塞ぐように額から垂れ下がっているが、紙が透けて見えるおかげで前が見えなくなるということはなかった。けれど常に目の前にひらひら動く紙があるというのはどうにも気が散る。そんなレイラの訴えをばっさり切り捨て、リドルは扉をすり抜けて外へ行ってしまった。レイラは頬を膨らませたままそれを追いかけた。
予想通り、談話室には数人の上級生の姿があった。リドルの言葉を信じて出てきてしまったが、本当にこの札で姿が見えなくなるんだろうか? もし効果がなければ顔に奇妙な紙を貼り付けて歩き回るただの変な人になってしまう。
ちゃんと効果がありますようにと祈りながら足音を立てないようにそーっと歩く。談話室の真ん中辺りに差し掛かった時、肘掛け椅子に座って羊皮紙の束を眺めていたウッドがぱっと顔を上げたので思わず声を上げそうになってしまった。
難しい顔でレイラが立つ辺りを見つめて何事か考えるウッドの姿に心臓がバクバクと音を立てる。やっぱり見えているんじゃ…とレイラがごくりと唾を飲み込んだ直後、ウッドは「思い出した、バードック・マルドゥーンだ」と独り言を呟いて羊皮紙にペンを走らせた。
(すごい、本当に私の姿が見えなくなってるんだ)
札の効果が本物だとわかり、改めて感動した。これはいくつも作れる物なんだろうか。もし量産できるならとても便利だ。夏季休暇に会った時にルースに聞いてみよう。
そんなことを考えながら慎重に廊下へ続く穴を潜る。丁度太った婦人は外出中だったらしく、無人で開閉する扉を誰にも怪しまれることなく外へ出ることができた。
「まずは三階の女子トイレだ」
三階の女子トイレというと嘆きのマートルがいるトイレのことだろうか。無言のまま首を傾げたレイラにリドルは頷いてみせる。どうしてマートルのトイレに行くのか。色々と聞きたいことはあるが、声を出せば見廻りをしている先生達に見つかる確率が一気にはねあがる。いくら姿が見えなくても、物音を立てれば気付かれてしまうだろう。自由に喋れるリドルを恨めしげに睨み、再び黙ったまま慎重に足を進める。
授業中の今は見廻りの数も多くないようで、思ったよりスムーズに目的地へ到着することができた。ギィィ、と軋むドアに顔を顰めながらそっと中を覗く。相変わらず薄暗くて不気味な雰囲気のトイレだ。
「…ここに入るの?」
レイラは不安そうな顔でリドルを仰ぎ、辛うじて音になっている程に小さな声で問いかけた。このトイレは不気味だし水浸しになるし、できれば入りたくない場所だ。リドルが頷いたのを見て渋々中に入ろうとして立ち止まる。ここには嘆きのマートルがいる。この札はゴーストにも効くんだろうか? そんなレイラの不安に気付いたらしく、リドルは「大丈夫だよ」と肩を竦める。
「今このトイレには誰もいない。ここに住み着いているゴーストは排水管の中でも漂ってるんじゃないかな」
確かによく耳をすませるとブクブクという水音と小さな鼻歌のようなものが聞こえる。それが余計にトイレの不気味さを煽るからやめてほしい。
とりあえず、誰もいないなら小声程度なら話しても問題ないだろう。
「それで? ここでお話するの?」
「まさか。その手洗い台の蛇口、一つだけ他と少し違うのがわかるかな?」
「他と違う…?」
手洗い台に並ぶいくつもの蛇口。部屋が薄暗い上に蝋燭の灯りが揺れて見づらい。ぐっと顔を近付けてひとつひとつ見てみるが全部同じに見える。「わからないわ」と言おうとしたところで違和感を覚え、もう一度そこに目を凝らすと蛇口の横に小さな蛇が彫られているのを見つけた。
「あった!これじゃない?」
「ご名答」
見つけられたことが嬉しくてぱあっと顔を明るくしたレイラに向かってリドルは綺麗な笑みで頷く。
「この蛇口はとある場所へ通じる入口だ。合言葉を使える者だけが通ることを許される」
「合言葉を使える者だけ? 私、合言葉なんて知らないよ。リドルは知ってるの?」
「勿論。その蛇に向かって開け≠ニ言えばいい」
『合言葉を知る者』ではなく『合言葉を使える者』という言い回しに首を傾げたレイラだったが、リドルの言葉を聞いてそんな些細な疑問から意識がそれた。合言葉と言うからにはもっと特別な言葉や難解な言い回しだったりだと思ったのに、「開け」なんてそのまま過ぎやしないだろうか。
「開け≠ェ合言葉なの? それだけ?」
「そう。簡単だろう?」
「簡単すぎるわ。こんな単純な合言葉だと合言葉の意味がないと思うんだけど…」
普段人が寄り付かない女子トイレ。入口がこんな場所に隠されているなんて今から行くのは何か重大な秘密の場所なのかもしれないと思ったが、こんな単純な合言葉を使うならあまり特別な場所ではないのかもしれない。緊張と不安が入り交じってドキドキしていたのが馬鹿らしく思え、レイラは肩の力を抜いて口を開いた。
『開け』
合言葉を口にした瞬間、蛇口が白い光を放ちながら回り始めた。手洗い台はぐるぐる回りながら沈み込んでいき、大人一人が通れる程の太い配管の丸い口が現れた。
「まさかここに入るの?」
綺麗な笑みのまま頷かれ、レイラは勢い良く首を振る。入口というからてっきりドアや階段が現れるのかと思ったのに、現れたのはただの配管だ。杖明かりを点して覗き込んでみても梯子や階段のようなものは見えない。軽く傾斜がついているとはいえ、滑り台と呼ぶにも急斜過ぎるそこに入る勇気はない。
「絶対無理!」
「安全は保証するよ?」
「安全だとしても、こんな汚い中に入りたくないわ」
「その札を付けていればこの程度の汚れからは守ってくれる」
「ほ、本当に? ……うぅ、でも…」
汚れないと言われても、と顔を顰めるレイラに向かってリドルはわざとらしく大きく溜め息を吐き、こてんと首を傾げてみせた。
「そんなふうに悩んでいる間にも時間は過ぎていくよ? 札の効力が切れるまで……長く見積もってあと五分ってところかな」
「えぇ!?……………んんー!!もうっ!」
どっちみち行くしかないのだ。ならば札の効果があるうちに。レイラはぎゅっと目を瞑り、思い切って配管の中に体を滑り込ませた。
滑っているというより、落ちていると表現した方が合っているかもしれない。最初は目を瞑っていたレイラだったが、恐る恐る目を開けてみても汚れや水しぶきが顔にかかることはないとわかると少しだけ安心した。恐ろしい速さでぬるぬるした配管の中を滑り続ける。どこまで落ちていくのだろう。きっと学校の地下、スリザリンの談話室や魔法薬学の教室よりもさらに下に落ちている。
いつまで滑り続ければいいのかと考えていたレイラはふと終わりのことを考えて顔を青ざめさせた。出口がどうなってるかわからないが、こんな猛スピードで落ちていったらどうなってしまうのだろう。
「リド──うわぁ…っ!!」
リドルに聞こうと口を開いた直後、体がふわりと浮遊する感覚に悲鳴を上げた。出口から放り出されたのだ。咄嗟に目を瞑ったレイラだったが予想したような痛みや衝撃はなく、ふわりと足が地面に着地したのを感じて目を開けた。
そこは石でできた大きなトンネルのようだった。壁も床も湿ってぬるぬるしている。杖明かりでトンネルの中を見回していると、いつの間にか隣に立っていたリドルが「行こう」とトンネルの先を指さした。
「まだ目的地じゃないの?」
「もう少しさ」
「そもそもなんでお話するだけなのにこんな所に来なくちゃいけないの?」
むすっとするレイラの問いに答えることなくリドルはレイラの額に手を伸ばし、「もう札は必要ないね」と笑う。レイラはそんなリドルの態度にぷくっと頬を膨らませながら札を剥がし、小さく折り畳んでポケットにしまう。
「一本道だから迷うことはないだろうけど、暗いから足元に気を付けて」
「うぅ…リドル、絶対私の傍から離れないでね? 一人にしちゃいやよ」
「勿論」
こんな暗くてジメジメした所を一人で歩くなんて、考えただけで泣きそうになる。ここに連れてきた張本人であるリドルに頼るのも癪だが仕方ない。レイラは杖明かりをかざしながら真っ暗なトンネルを進み始めた。
トンネルの中は杖明かりを点していても一歩先が見えるかどうかという暗さだ。しかも他に人の気配はなく、静まり返った空間に響くのはレイラの足音だけだ。床に散らばった小動物の骨を踏んでしまった時には本気で引き返そうかと思ったが、「戻るなら僕はレイラの前から姿を消すよ」と言われてしまえば進むしかない。こんな所に一人置き去りにされるのだけはごめんだ。
最初こそ半泣きになりながら歩いていたが、途中から何とも言えない既視感を覚え始めた。レイラはその感覚に戸惑いながらトンネルの壁や床を照らして首を捻った。なんだろう。初めて来る場所なのに、何故かこの場所を知っている気がする。似たような場所に来たことがある? いや、マルフォイ邸にこんな場所はないし、ホグワーツでもこんな場所は他に知らない。
他に思い当たるような場所は……と考えようとした時、それを中断するようにリドルが目の前で立ち止まる。そしていつもと変わらない軽い調子で口を開いた。
「そろそろ昔話を始めようか。五十年前、ホグワーツで出会った二人の生徒の話を」
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