19:いつかの仕返し


  

…その時湧き上がって来た感情は、俺にとって今まで一度も感じたことがないものだった…




「…クラウド…?」

突然現れたクラウドに戸惑いながらも、もう一度名前を呼ぶ。
けれど、彼の蒼があたしに向けられることはなくて…ただ、掴まれた二の腕がすごく熱い。
彼はもう一度グイとあたしの腕を引くと、場所を入れ替えるようにあたしの前へと体を進める。クラウドの後頭部を見つめながらポカンとしてしまう。
一体、何が起きているのか…よくわからない。
ふと顔を上げると、さっきまで食い下がっていた取引先の男性も驚いたように目を丸くしていた。
…かと思えば、わずかに表情を柔らかくして、目の前の状況に唖然とするばかりのあたしへと優しく笑いかけてくる。

「もしかして…苗字さんの彼氏?」
「っ…」

いや、違います…!
とっさにそう答えようとしたあたしだけど、口を開いただけで言葉は出てこなかった。クラウドが、あたしよりも先に言葉を発してしまったからだ。

「…だったらなんだ?」
「っ…!!!」

まるで、肯定とも取れる物言いに、何言ってるの!?とすぐに言ってやりたいのに、やっぱり言葉は出てこない。
パクパクと金魚のように口を開けたり閉めたりするしかないあたしを見て、男性は一体どう思ったのか…それははっきりわからないけど、クラウドからあたしへと視線を戻した彼は穏やかに微笑んで見せる。
こういうのを、大人の余裕…とでもいうのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、前のクラウドからは思いっきり舌打ちが聞こえて来て…

「…帰るぞ」
「わ、ちょっ…」

そのまま、クルリと踵を返すクラウドに腕を引かれたあたしは引き摺られるようにその場を後にする。
相手は取引先の方…会社に迷惑をかけるようなことになってはいけない…ということが再び頭をよぎってペコリと小さく頭を下げると、彼からは「また会社でね、苗字さん」と言葉が返ってくる。
その瞬間、腕を掴むクラウドの力がわずかに強まったような気がしたのは…あたしの気のせい?

それから、どのくらい歩いたか…クラウドは今もあたしの腕を掴んだまま、歩幅も大きくズンズン進んでいく。
こんな異様な状況に何事かと振り返る人がいなかった訳ではないけど、正直あたしもそれどころではない。クラウドの歩幅で、半ば引き摺られるように歩くのもそろそろ限界だ。パンプスを履いた足が悲鳴を上げている。

「クラウドッ、待って」
「…なんだ」
「足、そろそろ縺れて転びそうっ…」

悲鳴でも上げるかのようにそう訴えると、クラウドが振り返ってハッとしたような表情を見せた。

「それに腕、少し痛い…」
「…すまない」

呟くようにそう言って、クラウドが足を止める。ずっと掴まれていた腕も同時に離されて、気が付くとあたしの息はわずかに上がっていた。息を整えるあたしの様子を黙って見つめていたクラウドが、静かに視線を逸らすのがわかる。

「ねぇ、どうしてここに…」
「遅いから迎えに来た」
「だって会社の場所…」
「勤め先を言っていただろう、地図を見れば歩いて来られる」
「歩いて来たの!?」

家から会社まで、結構な距離があるんだけどな。あたしだって普段バス通勤だし…と思い、クラウドを見やるも彼は相変わらず平然とした涼しい顔をしている。やっぱり、あたしの常識では測れない人だ…
どこか呆然としながらも、一番聞きたいことを聞けていないことに気が付く。「ねぇ」と再び声をかけると、今までそっぽを向いていた蒼色があたしへと落とされた。

「…いつから、そういうことになったの?」

クラウドの瞳はあたしから離れない。すごく曖昧な聞き方をしたけれど、彼にはちゃんと伝わっているという不思議な確信があった。

「いつかの、仕返しだ」
「あ…」

クラウドの言う“いつか”…それが何のことを言っているのか、以前の記憶がすぐに蘇って来た。
向こうの世界に行ってしまったあたしがまだクラウドと再会する前、素行の悪そうな人たちに囲まれて困っていた時、だ。あの時はとっさにあたしからクラウドへ恋人役を吹っかけたけど、確かに同じ状況だ。思わず漏れた苦笑いと共に顔を上げると、クラウドが小さくため息をつく。

「だいたい、名前は隙が多すぎる。何だってこう何度も絡まれるんだ」
「今のは、別に絡まれていた訳では…」
「断わり切れてなかっただろ」
「う…」

それを言われると何も言い返せない。
相手が取引先の人だったから…とか、無下にもできなくて…とか、そんなことを言ったところで言い訳みたいだし、第一こっちの常識が通じないところがあるクラウドに理解してもらえるとは思えなくて…
何も言えずにいると、そんなあたしのことをじっと見ていたクラウドは何を思ったのか…ふと視線を落とすと小さく息を吐く。

「…迷惑だったか?」
「え…?」

迷惑…では、ない。もちろん。
助けられた、と思っている。ただ、すごく驚いただけ。
クラウドのことをじっと見ながら首を横に振ると、また蒼の視線があたしの瞳を捉えてくる。
自惚れだったら嫌だから考えないようにしていたけど…やっぱり、心配してくれた…のかな…
そう思って、いいのかな…?

「ありがとう……来てくれて」

クラウドの瞳がわずかに開かれて、そしてまたすぐに伏せられる。
「ふ、」と小さく笑った声が聞こえた。クラウドが笑うのは珍しい、それを知っているだけに何だか嬉しくなる。

「ご飯、食べて帰ろうか」
「そうだな」
「それと…」
「何だ?」

疑問を浮かべながらあたしの方へと向き直ったクラウドを改めて見て、うんうん、と頷く。

「ちゃんと服、替えて来てくれたんだね」
「名前がそうしろって言ったんだろ」
「そうだけど…うん、いいね、カッコいい」
「っ……」
「やっぱり、あれだね、顔がいいと何でも似合っちゃうんだね」
「……………」

1人ものすごく納得するあたしだけど、クラウドからの同意も否定も返っては来なかった。
「知るか」とだけ小さく聞こえた後、さっさと歩き出してしまう彼を慌てて追いかける。
ふと気が付くと、随分お腹が空いている。何食べようかな、なんて思いながらクラウドの横に並んだ。

  

ラピスラズリ