当然、他人の空似だと思った。
だが、そんな相手の口から俺の名前が出た瞬間、疑念はすぐに消え去った。
…名前だ。
1度も呼んだことのないその名前を、俺自身覚えていたことに内心少し驚いた。
「何見てんだぁ?今取り込み中なんだ」
「ックラウド…」
とっさに俺のところに駆け寄ろうとしたらしいその体は、強い力で引っ張られ、強引に元いた場所へと戻される。
よほど強い力が込められたのか、その表情はわずかに歪んでいた。
「ちょ、と…痛いってば」
「おいおい、そりゃねぇだろ…愛の告白はまだ終わってないんだぜ?」
「な、に言って…」
「こんな廃れたスラムにお前みたいな上玉がいるとはな…今日の俺はついてる」
「いいから、離して」
「スラムの中で何度も何度も出くわすんだ、こりゃもう運命だろ?」
いい加減、頭おかしいんじゃないの?と言葉で応酬しながら、腕を振り解こうとしているようだが…力の差が歴然だ。
下卑た笑みを貼り付けながら、男が名前を見下ろしている。
さらに腕を捻り上げられ彼女の顔が苦痛に歪んだのを見て、俺は無意識のうちに一歩踏み出していた。
その時、名前が真っ直ぐに俺と目を合わせてくる。
瞬間、言葉では言い表せないような“何か”が体の中を駆け巡った。
顔を歪ませながら、名前が小さく頷くのが見えて…
「だから、やめてってば!あの人…あたしの恋人なの」
「…は?」
思わず、片手で顔を覆った。
さっきの“何か”はコレか…嫌な予感の前触れだったのか…
何も言い返せずにいると、一瞬の隙が生まれたらしい男の腕を力一杯振り払った名前が慌てたように俺の元へと走ってきた。
背後におさまったのを横目に確認して、遂にため息が漏れる。
「…おい…いつからそういうことになった」
「それは、ごめん…緊急事態なの…助けて」
「…はぁ…」
「衣食住を提供してもらった恩があるでしょ…お願い、今だけでいいから、そういうフリして」
この作戦が吉か凶かはわからないが、言い合いをしている場合でもないらしい。
小声で話す俺たちに、男たちが痺れを切らしたように、にじり寄ってくる。
今の名前の言葉を信じたのかどうかは分かりかねるが、目の前の男の癇に障ったことだけは間違いなさそうだ。
「兄ちゃん、近所の人かい?」
「まぁな」
「へぇ…」
足の先から頭の先まで、値踏みするかのような男の視線が不快でしかない。
男の視線が俺から背後に向けられた瞬間、名前が強張る感覚が伝わってくる。
ふと思い出されるのは、向こうでの生活のこと。
こんな何でもない状況ですら、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。
ふ、と鼻で笑った男が再び俺に向き直った。
「ところで兄ちゃん、右腕が銃になってる大男を知ってるか?この辺りに根城があるらしい」
「…どうだろう」
曖昧に誤魔化せば、いとも簡単に男は乗ってきた。
じっくり聞かせてもらうぜ…と言い、場所を変えるらしい。
こちらとしても、好都合だ。
男の手下たちが背後に回り、俺と名前は挟み込まれた形になる。
「お前も来い。こんなガキなんかとは格が違うって所を見せてやる」
「……………」
「考えが変わるんじゃねぇか?」
嫌な笑みを貼り付けた男が名前にかけた声が耳につく。
名前はそれを黙ったまま、ただ睨みつけるように聞いていたが、早く行け、と背後の手下に背中を押されたようで、前に躓くかのように1歩を踏み出した。
肩越しにわずかに振り返れば、顔を上げた名前と目が合う。
「…大丈夫だ」
「……………」
無言のまま頷いた彼女の姿を確認して、前を歩く男の後を追った。
「アニキはこえぇ人だぜ?逆らうなよ」
「死に急ぎてぇなら止めねぇけどな」
そんな陳腐な脅し文句を聞き流していると、狭い通路を通って、袋小路のような場所に着いた。
男と向かい合った俺は、小声で名前に離れてろ、と声をかける。
何かを言おうと口を開きかけたのがわかったが、俺が無言で頷くと名前も口を噤み、そのまま奥の壁側へと走っていく。
「おい、男の居場所知ってんだろうな」
「二度も言わせるな…どうだろう」
「てめぇ、知らねぇんだな!」
「ふん…神羅の末端か」
「神羅も一目置くお方のアシスタントよ」
「だからどうした」
名前は離れている。
これで、思う存分、剣を振るえる。
彼女と男たちの間を遮るような立ち位置に、俺自身ようやく少し安堵していることに気がつきながら、ゆっくりと背中の剣を構えた。