「幸福は振り返らない」


フォン、と音が鳴る。
そうして其処に表示されるアイコンに、ゆっくりと瞬きをし乍らタップした。
真新しい端末は、然し残念なことに保護シートすら貼っていない。

 Q:こんにちは
久語:こんにちは

名前の欄には、"Q"と云う言葉。
其れを見て、あぁ、真実ほんとうに"Q"で正しかったのかと思いつつ、次の言葉を探していく。
ほんとに、素っ気なくて簡素な記号名前だ。

久語:でも、もう夜だからこんばんは、かも。
 Q:じゃあ、こんばんは?
久語:うん。こんばんは。

味気ない名字表記に。
私の表示、下の名前に変えようかな、何て事を思いつつ。
ゆっくりと、けれど途切れることなく重ねられていく言葉に、意外と話せているなと思う。

もっと、こう、なんて云うか。
──会話を、してくれないと思っていた。

久語:あれから、大丈夫だった?
 Q:なにが?
久語:沢山泣いて動かなくなっていたから。
 Q:ああうん
 Q:お姉さんやめてって云ってもやめてくれなかったもんね

続け様に重ねられたチクチクする言葉に、ほんの少しうっとする。
だけど、それは仕方なかったのだ。
だって私も、自分のことなんて知らなかったのだから。

久語:ごめんね。真逆、私が本を読んだら周りがその、影響? を受けるとは思わなかったの。
 Q:僕のやめてって云う声も聞こえなかったの?
久語:うん。聞こえなかった。夢中になってしまったのかも。
 Q:ふぅん

此のLINEの相手は──Qだ。
私が今弄っている携帯端末はあのポート・マフィアから支給されたもので。
私は今後、此れのみでしか、連絡を取ることは許されない。

前の携帯はあの儘没収されてしまった。
友人たちに対しては、携帯は無くしたことにして、連絡を取りたいのなら新しく此の携帯にアドレスを登録しろと云われたけれど。
でも確実に見られる、、、、のは確実なわけで、今少し、悩み中だ。

そうして、何故今こうしてQとやり取りをしているのかと云えば。
殺処分ではなくなったものの、"情緒教育係"と云う役目はあれで打ち切りになったわけではなかったらしく。
Qと其の儘継続して相手を続けろと御達しがあったのである。

詰まりは、此の会話も"教育"の一環なのだ。
LINEで会話をすることの何が如何、"教育"になるのかは、イマイチわかってないんだけど。

 Q:お姉さんはいま、何しているの?
久語:なんにも。ホテルのベッドでごろごろしてる。
 Q:外にいるのに何もしないの?
久語:もう夜だし。外に居たって、やることがあるとは限らないから。

──私にとって、"此処"は中だ。
私の家ではなく、恐らく監視のついたホテルの中。
下手に部屋から出ようものなら"向こう"に通告が入り、勝手にホテルから抜けだそうものなら直ぐ様捕らえれれるだろう。
そうなったら如何なるのかな、なんて。
答えなんて、判りきっている。

 Q:お姉さんは明日はなにするの?
久語:学校にいくよ。学生だもん。
 Q:学校にいってなにをするの?
久語:学校にいってお勉強するよ。
 Q:なんの勉強? 難しい?
久語:明日は英語があるからちょっと難しい。苦手なの。

──学校行きたいのかな。
そう思うけど、其れは云えない。
何が云っていいことで、何が云ってはいけないことなのかを、私は自分で判断しなければならない。

久語:Q君は、何してるの?

気紛れで送った質問。
けれど、其れは先程までとは違い、既読はついても中々レスポンスが返ってこない。

あれ、と少し疑問を抱く私に。
然しやっと帰ってきた返信は、私に少しの後悔を抱かせるには十分すぎるものだった。

 Q:なにも
 Q:ここにはなにもないから、なにもしてないよ

表示された言葉に、ぴたりと指が止まる。
早速地雷を踏んでしまったかもしれないと、惘乎ぼんやりと思って。
──いや、でも、そりゃそうだ。

目を瞑らなくたって思い出せるあの部屋の中。
子供の好きなものなんて、恐らく一個だって用意されていない綺麗なだけの部屋。
あの部屋の中でやることなんて、出来ることなんて。
きっと、恐らく、ないんだろうことは連想に容易い。

「…………」

迷って──迷って。
だけど返事か遅いのもきっと心象が悪いだろうから、無理矢理にでも言葉を捻り出す。
焦燥感と、ほんの少しの罪悪感。だけれどきっと、其れは私にだって他人事ではない事、で。

なんだ、なにかないか。
此の話題を、反らしたい。
そうして不意に視界に映るのは、此の端末、、、、

久語:此の携帯は、支給されたものなんだけどね。
 Q:うん、知ってる
久語:まだ、殆どなにも入っていない、空っぽなの。
 Q:ふぅん

──きっと、此のLINE画面は、見られているんだけど。
だからもしかしたら、私が此れから送る文面に関して、何らかの小言──否、罰則に近いものを、喰らう可能性もあるのだけれど。
然し、私に此れを支給した時に何も云わなかったのだから、"駄目だとは思わなかった"と云い逃れが、出来るかもしれない。
仮に出来なくたって、其れでもいいと、何故か思えて。

久語:写真を、送ってあげる
 Q:写真?
久語:そう、写真

私の学校は、まあ、規則はやや弛い。
挨拶などに関しては其れなりの決まりごとはあるのだけれど、何かと物騒なヨコハマの土地柄もあってか、携帯電話の使用は特に制限されていないのだ。
持ち込みだって大丈夫だし、授業中に使わない限りは、学校内での使用も禁止されていない。
だから、例え校内で写真を撮っても叱られることはないのだ。

久語:私が通っている処で悪いけれど、学校の写真を送ってあげる。
久語:学校だけじゃなくて、帰り道とか、外の景色とか、色々。
久語:其れで気になったものがあったら教えてよ。調べられるものなら、調べるし。
久語:持っていけそうなものだったら、持って行ってあげるから。

──よかったの、だろうか。
一連の言葉を送り切って、他に通知がないか全神経を此の小さな端末に向けていく。
此れでもし"余計なことをするな"と云われたら、Qには謝って、何か別の方法を探そう。

だって、でなければ。
たったひとりきりであの場所は、寂しすぎる。

然し、待っても待っても他の通知が来ることはなく。
やっと反応を示した先は──先程から変わらず、QとのLINE画面。

 Q:たのしみにしてるね

簡素な言葉。
何かを秘めているようにも思えるし、裏表のない言葉の様にも思える。
だけれど、其れを探り出せるほど、私は此の子の事を知らなくて。

「──……」

迷って──迷って。
彷徨い果てた私の指先は、やっとこさで一つの言葉を絞り出す。
其れはある意味、自分に向けての言葉でもあった。

久語:うん、がんばるね。

だって、つまりは。
此れも仕事の内と、云う訳なのである。




「何か、悩み事でも?」

ふんわりと優しげな声音で囁かれた問い掛けに、ぴくりと指先に力が入った。

視線をゆるゆると上げれば、其処に居たのは隣の席の谷崎さんで。
私の背後にある窓からの光で髪の毛を艶めかせ乍ら、彼女は微笑みを称え私を見つめている。
いつ見ても、綺麗な子。

谷崎さんとは、同じクラスになるのは此れで二回目だ。
高一の頃に一度同じになって、でも其の頃は余り喋らなくて。
そうして今の此の高三のクラスで再度同じクラスになり、更に隣の席にまでなった。

谷崎さんも私もよく喋る方ではないけれど。
然し嘗て一年間を同じ空間で過ごしていたこともあり、隣の席になってからはちょくちょくと会話が生まれ始めたのだ。
──最も、更に深く云えば"互いの事情"を互いに嗅ぎ取っただけ、とも云えるけれど。

「一寸ね。……知り合いの子に、色々写真を撮ってあげることになって。何処を撮ろうかなぁって」
「まあ、写真ですか?」
「そう。あんまり外に出られない子で、だからせめて外の風景でも見せてあげたいなって。……でも何撮るか悩んでるんだよね」

表現が少し違うだけで、嘘は云っていない。
そんな私の言葉に、谷崎さんは「まあ!」と両の指先を合わせながらふわりと微笑んだ。

「素敵ですわね! 其の子はどんなものが見たいと云ってるんですの?」
「其れが、私が一方的に撮ってきてあげるって云っただけだから……。あの子が何をみたいのか判らないの。あ、でも、取り敢えず学校の写真は撮るつもり」

なんとなく、携帯端末のカメラを起動させながらそう云ってみれば。
谷崎さんは、私の携帯を目にして、少し瞬いた。

「あら、機種変しましたの?」
「あ、うん。一寸色々あって、新しいのになったの。前のは前ので……修理に出してて、データとか全然移行できてないんだけど」
「じゃあ、LINE交換しましょ」

そう云って差し出される彼女の端末に。
少し、ほんの少しだけ──佳いのかなと、固まってしまったけれど。
特に気の利いた云い訳も思いつかなくて、結局曖昧に笑ったまま表示されたバーコードを読み取っていく。

フォン、と端末は震えて。
そうして出てくるのは、"ナオミ"という彼女の名前。
アイコンに映っているのは、彼女と──噂のお兄さんだろうか。

「アイコン変わったね」
「うふふ、此の前、兄の職場で新人の方の歓迎会を行いましたの。其の時に撮ったんですのよ」
「歓迎会かあ。谷崎さんも其処でバイトしてるんでしょう? 如何? やっぱりバイトって大変?」
「んー、其れなりに難しい事も多いですけれど……。彼処の皆様は善い人ばかりですから、其れでも楽しいですわ」
「楽しい職場かぁ。いいなあ……」

思わずぐったりとそう呟けば。
私の様子に何かを察したのか、少々不思議そうに谷崎さんはこう問いかけてくる。

「若しかして、久語さんもバイト、、、を始めるんですの?」
「……うん。バイトって云っていいのか判んないんだけどね」

意外そうに谷崎さんの瞳が瞬く。
そりゃそうだ。今の今まで、私は金銭関係の悩み事を一切語っては来なかったのだから。
むしろ、父親は家に居ないけど、お金は自由に使えるだなんてことを漏らしたこともある。
そんな"金に困っていない私"がなんでバイトなんかを始めるのか、恐らく賢い彼女の頭の中では予想が幾つも組み立てられて行っているのだろう。

「お父さん関係で色々あって……。其処で、んー、社会勉強をする事になったの」
「まあ。私は基本事務仕事なので、他の事は判らないのだけれど……何か困った事があったら相談に乗りますわ」
「うん。ありがとう」

綺麗な声が紡ぐ上品な口調に、なんとなく癒されるような心地を覚える。
彼女の育ちなんて何も知らないが、其れでもすらすらとこぼされる美しい言葉の数々に、其の品の良さだけは嗅ぎ取れるのだ。

そんな彼女が"楽しい"と称する職場なら、さぞや素敵な人たちが揃っているのだろう。
──其れに比べて私と来たら。

自身が此れから"世話"になる黒服の男たちを思い浮かべて。
此の格差はなんだろう、と矢っ張りまた疲れたような笑みを浮かべ乍ら、思わず羨まし気な顔をしてしまう。

そんな私に気付いてか。
谷崎さんは谷崎さんで、どことなく悪戯っぽい顔でこっそりとこう囁いてくるのだ。

真実ほんとうにバイト先が大変でしたら、是非、頼ってきてくださいな。私にはなんの権限もないですけれど、社長に掛け合うくらいは出来ますもの。久語さんを引き取ってあげてくださいってお願いしてみますわ」
「……ふふ。じゃあ、真実ほんとうに困ったら、頼っちゃおうかな」

──まあ、何があっても何が起きなくても、きっと其れは不可能なんだけれど。
でも其の優しさを無下にすることも出来なくて、やんわりと微笑めば、同じ様な微笑みが返ってくる。
谷崎さんは、ほんとに、真実ほんとうに、優しい子だ。

「ああ、そうですわ。今日一緒に帰りましょう? 私たちにとっては見慣れた通学路でも、"其の子"にはきっと新鮮なものかもしれませんもの」
「あぁ、なるほど。……撮るとこ、一緒に考えてくれる?」
「ええ。なんなら、セレクトまでばっちりお手伝い致しますわよ」

にっこりと微笑む姿は、とても頼もしい。
そんな彼女の顔は撮らずにに手元だけをパシャリと撮ってみれは、思わずといった様子で笑われてしまった。

「ふふっ手元だけですの?」
「うんほら、顔はプライバシーの侵害に当たるかもしれないじゃない?」
「うふふっ! 久語さんたら確りさんなのね」

──正確に云うと、万が一の事を考えて彼女の顔を此の端末に残らないようにしたいだけなんだけど。
そんなことは云わずに、"連絡"と表示されているLINEのアイコンをタップして。
"今日は学友と途中まで一緒に下校してから其方に向かいます。"と打ち込んだ。
勿論、谷崎さんには見えないように。

さわさわと、風が髪を擽っていく。
長閑な木漏れ日を頬に受け乍ら、既読マークのついた画面をそっと閉じた。
多分、どうせ、今の会話だって此の端末を通して聞かれているんだろうな──なんて。

思い乍らも、日常を手放せない私は、きっと酷い奴なのである。

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