月の秘密をおしえてよ
※4/29の気持ちで読まれて下さい。
空の上は、ひどく自由だ。
手と手を繋ぎあって、触れあって。
頬を、腕を、足を撫でてはすり抜けていく風を全身で感じては、叫びだしそうなほど震える呼吸をふふ、と溢す。
不思議な感覚だ。
足を動かしても、手を降ってみても、空気を別けるだけでそこに
重さは感じない。
まるで水のなかにいるみたいに、ゆらゆら風の中で游いでいるみたい。
夜空の中はちょっと寒い。
だけど、それ以上に──気持ちいい。
「んふっ、ふふっ、ふふっふ! すご、すごいねっほんとに空っ飛んでる!」
「だろ? 特等席だよ」
はじゃぐ心を押さえられずに、そのまま言葉にしてしまえば。
すぐ隣から、愉快そうな声音がそっと耳に届くのだ。
その言葉がなんだか不思議で。
私は、はためく髪を押さえながらも思わす言葉を繰り返してしまう。
「特等席?」
「そ。俺とアンタだけ」
「他の子にはやってないの?」
「そりゃあな。誰に彼に遣るもんでもないだろ」
──誰に彼にやるものじゃない?
それはどういうことだろと考えて、しかし直ぐにこう思い返す。
羊にいる子達は、皆小さいというか、若い子が多い。
ゲームとか娯楽とかは中々手に入らないし、特に最近お金を入手し出した上の子とは違い下の子なんかは日々遊びに飢えてる。
そんな中で、中也くんが"こんなこと"出来ると知れた日には、タダで出来るアトラクションとして小さい子達に群がられてしまうかもしれない。
そうなると、あれだ。
只でさえ最近忙しい中也くんは、もっと休む暇も息をつく間もなくなってしまうだろう。
──それは、大変かもしれないというか、大変だろう。
「そうだね。皆連れてって欲しくて、中也くん休む日なくなっちゃうもんね……」
「……そうなるのがアンタだよなァ」
なんでかちょっと呆れたような声。
今そんな要素あった?って思いつつも、ちらりと横目で盗み見た中也くんは楽しそうで。
ならまあいいか、と私もびゅうびゅう頬を撫でる風を感じながら唇を弛めた。
夜空は吸い込まれそうなほど広くって。
そうして満点の星空は、まるで海みたいに深い。
生まれて初めて感じる"無重力"という感覚に、ああ、宇宙飛行士もこんな気分なのかな、なんて。
思った気持ちでぼんやりと感じ入っていたら、そっと呟かれた穏やかな声が耳を掠めた。
「んで?
はうるってのは、どんなのなンだよ」
「え?」
優しく問う声。
ちょっと武骨なはずなのに、なんだかとても大人びているようにも感じてしまって。
ほんの少しだけ、どきりとしつつも私は頭の中で"ハウル"のことを思い浮かべる。
私が昔、言ったこと。
ハウルみたいに、空中散歩に連れてって。
ということは、今聞かれてるのは"空中散歩"のことで。
──これで、充分なんだけどな。
そうは思いはするけど。
思いは、するけども。
「えっとね。こっちの手は、こっち。それでこっちはこうして」
手綱を引き寄せるみたいに、私の右手と繋いでいた中也くんの左手を、私の左手と繋ぎ直して。
そうして空いた右手を伸ばして、ポケットに収まってた中也くんの右手を捕まえた。
自然と身体はさっきよりも近くなって。
私の髪が中也くんのこと叩いちゃわないかな、とそれだけ気になりつつも、高まる気持ちを抑えきれずに私は中也くんの事をちらりと振り返って覗き見る。
中也くんは、そんな私の事を不思議そうに見詰めていた。
「ふぅん。後ろに回るのか」
「そう! それで一緒に歩く感じ」
「歩く? 浮かんでんのにか?」
「そう歩くの。だってほら、
空中散歩だから」
「あ〜〜。なるほどな」
私の拙い説明でも、大体のことは理解したのだろう。
なにやらしたり顔で頷いた後、中也くんは大きく一歩を動かした。
すると勿論、さっきまでただ同じ場所に浮かんでるだけだった私ごと、位置が移動するわけで。
「うひゃっ!」
「ンだよ。歩くんだろ? ほら、姉さんも足動かせって」
「え、まって以外と一歩大きいって、わ、わわわっ!」
ぐんぐんと中也くんが足を進める度に、一歩の幅を越える距離を私たちの身体は動いていく。
歩くというより、飛び歩いてるみたい。
いや、そもそも飛んでるからそれで正しいの?なんて思いながらも、やっぱり想像してたよりも大きな歩幅に、私は繋いだ手にぎゅっと力を入れてしまう。
「早い早い! えっはやい! わ、え、待ってすごい進んでる! さっきあそこにいたのにっ、えっはや、」
「ちんたら歩いてたら朝になっちまうだろ?」
「ええっ! も、んふっふ! 、あははっ! そ、そこ? そこでせっかちになっちゃうの? ええ〜〜? もう、あははっ」
「ンだよ。別にいいだろが」
思いっきり笑ってしまってる所為だろうか。
視界に見える中也くんの頬っぺたが赤い。
照れてるのか恥ずかしがってるのか、はたまた怒っちゃってるのか。
そのどれかわかんないから、取り敢えずで謝ってみる。
いやでもうん、面白いんだけど。
「笑ってごめん。でも、ほんとちょっとでよかったのに」
「っるせ。運動不足解消させてンだよ。察しろっての」
「んっふ! ふふっいや、も、これ私浮いてるだけだから運動できてないよ」
「足動かしゃ運動だろ。おら足出しやがれ」
「あははっ! はぁい、出します出します」
後ろから軽く膝で蹴られて、思わずけらけらと笑ってしまう。
それで私も真似するように足を大きく開いて
歩くけど。
──ふと、とあることに気が付いてしまう。
私が着ている服は、女の子達がどこからか盗ってきてくれたものだ。
丈の長いパーカーワンピ。一枚でなんとかなるタイプ。
そしてその下は、下着と、外出なんてしないからサンダルタイプの靴だけ。
──つまりは。
「これ下から見たら私のパンツ丸見え?」
「──ッッ、!?」
瞬間、ガクンと
崩れる身体に。
私は「ひっ!?」と息の仕方すら忘れて慌てて中也くんの首へと抱き付いた。
「おち、おちてっ──ッ! あ、」
「……………………」
二メートルくらい一気に下がった高度は、しかしそこから静止画みたいにビタッと止まって。
私は、まるでソファーに沈むみたいに身体をやや曲げて寝転ぶような体勢のまま浮遊している中也くんの上に、上から被さって横に座るような体勢になってしまっていて。
ばっくばっくと久し振りに大きく心臓を動かしながら、驚いた猫みたいに大きな瞳を真ん丸に丸めている中也くんの顔をまじまじと見てしまう。
いやだって。
びっくりした。
「…………」
「…………」
お互いに、なんかもう無言だ。
ただ空いた身体の隙間をびゅうびゅうとすり抜ける風だけが、この無音を邪魔してる。
いつの間にか火照った身体が、落ち着きを取り戻していく。
そうしてふぅ、と息を吐いた私に、はっとしたように中也くんの左手が触れたのだ。
「……悪い。驚かせた」
ばつの悪そうな声。
だけど、どう考えても悪いのは私の方だから、私の腕に触れた中也くんの手を掴んでふるふると首を振る。
思春期男子に対してあんまりにも配慮が無さすぎた。
「私の方こそ変なこと言っちゃってごめんね。ビックリしたでしょ」
「いやまぁ……、吃驚ッつーかマジで他の奴等の前で先刻みたいな事言うんじゃねェぞ……」
「あー、あはは。うん、気を付けるね」
──居たたまれない。
というか、なんか中也くんの事を椅子にしてしまってる。
これはちょっとあれなんじゃなかろうか、と居心地悪げにそわそわする私に対して。
ふん、と鼻で息を吐いた中也くんは、そのままぐっと身を起こすのだ。
「ひゃっ!」
そうなると当然、中也くんのお腹の上に乗っかっていた私の身体は後ろに滑るわけで。
えっこれ落ちるのではと身を固くする私は──しかし、ぴたりと動きが止まる。
見れば、身体の周りが、まるで膜が覆っているようにぼんやり赤い。
──つまりは、中也くんの異能だ。
「落とさねェっての」
するすると滑った私のお尻は、すっぽりと胡座を組んだ中也くんの足の間に収まっていて。
そこに片手を繋ぎながら、横座りで私は再度ふよふよと夜空に浮かんでるのだ。
流石。抜かりない。
なんだか一人で焦ったのが恥ずかしいなと思っていれば、またびゅうと風が吹いて思わず目を瞑ってしまう。
一瞬の瞬きの後、また目を開けば。
そこには、私の事をじっと見詰める、二つの青色があって。
──綺麗な、瞳だ。
もう長い付き合いになる瞳、見知った顔。
の、筈なのに──何故か、どこか知らない人の顔に見えてしまって。
「…………」
「……ンだよ」
それに思わず黙り込めば、少し遅れて呟かれる言葉。
だけどそれになんて答えればいいのか、わからなくなってしまった。
──わたし、いつも何を話してたんだっけ。
そう記憶を遡ろうとするんだけど、どうにも、思考回路が上手く繋がらない。
どうしてもこの双眼に視線が吸い込まれてしまって、頭がいっぱいになってしまうのだ。
──あれ、なんだこれ。
なんだか焦り始める心情に、誤魔化すように絞り出した言葉は、こんな陳腐なものだった。
「ち、中也くんって、お誕生日、いつ?」
「は?」
瞬間、ポカンとした顔に。
あ、滑ったかなと思いつつも、もう呟いてしまったものはどうしようもない。
というかほんと、私は何をいってるんだろう。
「その、ほら、えっと。そういえば、中也くんのお誕生日、知らないなぁって思って……」
「ンなの、他の奴等もそうだろ」
「ああー……確かにそうかも」
基本、羊にいる子供はどこかからか逃げてきた子ばかりで。
それが集まって、群れにも近いグループになった羊にとっては、必要なのは名前だけでどこから来たとか今まではどう生きてきたのかとかの情報は必要ない。
というより、過去に触れるのは、一種の
禁句に近い行為なのだ。
そして今、私はそれを侵した。
「ん〜〜、ごめん忘れて……」
「…………」
「聞かなくてもいいことだったね。なんか気持ちがせっちゃって……なんだろね。変なこと聞いちゃった。ごめんね」
先刻までは、落っこちるまでは心地よかった沈黙が、今は少しだけ痛い。
本当にバカなことをしたと恥じる私に対して、だけど中也くんは真っ直ぐ私を見詰めるままで。
動かない瞳に、少しも開かれない唇に。これは様子がおかしいぞと、覗き込もうとした時だった。
「あの、中也く、」
「…………ぃ」
「え? ごめん、よく聞こえなくて」
声が小さく聞こえた。
だけど、風が強くて私に届く前にその言葉は流されてしまう。
だからもう一度問いかけた私に、中也くんは、瞳を細めて。
けれど確かに、こう告げたのだ。
「──俺に、誕生日は、ない」
再度の沈黙。
というよりも、私だけが動揺してる。
中也くんは変わらず私の事を見ていて。
私だけが、言葉を失ってただ青い瞳を見詰めているのだ。
さっきとは、まるで逆。
そんな私を気にする素振りもなく、そして懐かしむ様子もなく。
ただ淡々と、まるで紙に記載された言葉を朗読するように、中也くんは声を連ねていくのだ。
「……記憶がないとか、そう云うんじゃねェ。ただ、俺には8年以上前の事が
ないんだ。だから、誕生日もない。いつ生まれたとか、そう云うものが
そもそも存在しないンだよ」
「……それ、は」
──どういうこと?
そう言いかけて、だけど、それは言葉にはならなかった。
別段、嘘をついているようには見えない。
というか、中也くんはそんな嘘をつく子じゃない。
そうして、そう思うと同時に──出会った頃の、中也くんの姿が脳裏にひとつひとつ甦ってくる。
文字を読めない姿。
コップの使い方も、お箸のことも知らなかった姿。
お湯に驚いて、火に触れたら火傷をすることも知らなくて。
なのに身体だけは凄く上手に動かせて、まるでカラカラのスポンジに
水が染み込むみたいに、次から次へと教えたことを吸収していって──。
────
本当に空っぽだったからあんなにも吸収が早かった?
思い至った考えに、ほんの少し、ほんのちょっとだけ、舌がまごついた。
あり得ないと思う反面、この世界ならあり得てしまうかもと思う自分が、確かにいて。
びゅうと、風が吹く。
私の髪が瞬いて、視界を遮って。
そんな私の髪を、中也くんの指先が櫛を通すみたいに耳の方へと避けてくれる。
優しい、指だ。
ひどく優しい、触れ方だ。
だってそれが、中原中也と、言う"人"だから。
「──じゃあ、今夜が中也くんの誕生日だね」
気づけばそう絞り出していた声に、言葉に。
だけど私は、今度は私が、中也くんの事をじっと見詰めるのだ。
中也くんの瞳がまた少し開いて、ゆらりと揺れる。
その海の水面みたいな色彩に、私は私の髪に触れた方の手も捕まえて、繋いで、そのまま言葉を紡いでいくのだ。
「中也くんのお誕生日は、今日。私が証人。私が何度だって、そう教えてあげる」
「…………」
「人は、誰だって生まれた日があるの。──ううん、人だけじゃない。物も、動物も、空に浮かぶ月にだって、生まれは日はあって、終わる日が来るの」
自分が何をいってるのか、わからない。
もしかしたら、凄く変なことをいってしまってるのかもと、思うけど。
でもなんでか口は止まってくれなくて。
不思議な感情、おかしな高揚感のまま、私は思い付くままに言葉を舌に乗せてしまうのだ。
そうまるで、今しかないとでも、いうように。
「だから、中也くんは今日、ううん。今、生まれてるんだよ。だから、だからね」
「………………」
ぱちぱちと、長い睫毛に縁取られた瞳が、瞬いている。
これは多分驚いているなと、思う。
いやまあ、普通に、こんなの、誰だって驚く。
というか段々と、恥ずかしくすらなってきていて。
じわじわと頬の温度が上がっていくのを体感しながらも、私はここまで来たらと、もう意地みたいな状態でこう言いきってしまうのである。
だってこれ、むしろ言い切らなかった方が恥ずかしい!
「〜〜! お誕生日、おめでとう!」
「、うおっ」
ぐっと身を起こして、中也くんが動く前にその身体にぎゅうと抱き付いた。
反動か動揺か、それとも違うなにかなのか、またぐらぐらゆらゆら揺れるけど。
でも、中也くんにしっかりくっついてるからもう怖くない。
ばくばくと心臓がうるさくて。
いやもう、これ絶対聞こえてるんじゃと思うんだけど。
でも──でも、なんでか離れる気にはならなくて。
中也くんの両腕が迷うように動いているのを感じながら、私はまたそっと唇を開くのだ。
今度は、今度はもっと。
大事に、一つずつ、音を大事に呟いて。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「──!」
背中に、中也くんの手が触れる。
手が触れて、指に少しずつ力が込められていく。
そうして、ふぅと、ゆっくりと息を吐き出す声が聞こえて。
そのまま中也くんは私の肩におでこを置いたかと思ったら、ぐり、と首筋に擦り付けるようにすり寄ってきた。
ふわふわの髪の毛が頬に当たって、少し擽ったい。
それにむずむずしていれば、絞り出すようなか細い声が、小さく小さく、耳に触れたのだ。
「…………そーかよ」
──そうだよ。
思ったそれを、だけど、私は声には出さなくて。
同じように中也くんを抱き締める腕に力を込めて、それが応えと言うみたいに私も真似してすり寄った。
ゆらゆら、身体は揺れたまま。
ゆっくりゆっくり、星の海に漂ったまま。
私たちは暫くずっと、そうして二人で、游いでたのだ。