やたらと磨き上げられた清潔なホワイトの壁は、高校生の使う建物のものとは思えないほど美しい。並べられた机や椅子もモダンかつ洗練されたデザインだ。足の形が特徴的で、「己」という字の形のようにパイプが変形している。こういうのなんていうんだっけ。バウハウスだっけな。
高校生の学習に大金をつぎ込んだ設備を使ったところで、学校全体の偏差値が上がるわけでもないのになあ。隣の都立の学校のほうがよほど成績が良かったはずだ。
頬杖をつきながら何となく廊下を見ると、ざわりとそこの空間が泡立つように揺れる。
廊下を颯爽と胸を張って歩いているのは、白磁の肌の有名人。跡部景吾だ。こいつが歩くだけで、みな嫌な感じの熱量を持つのは何でなんだ。
彼にカリスマ性はあるのはよく分かる。それでも彼は、ちょっと、いやだいぶ、クズな側面もあるという認識なのは私だけじゃないと思う。真実を共有している人間は樺地くらいしかいないので、誰彼に共感を求めることも出来ないのだが。
跡部の澄んだ美しいブルーの瞳が教室の中を何かを探すように一瞬動き、私の姿を捉えた。よく見ないと分からないくらい、その瞼が歪む。このアイコンタクト。私に出てこいと言っているのだ。面倒ではあるのだが共通の目的のためだ、仕方ない。
足早に廊下まで近づくと、教室の窓からやや顔を出して跡部に気安くニッコリしながら話しかける。
「やあ、跡部くん。ご機嫌麗しいようでなによりだよ。今日も今日とてお家の車で送られて来たんでしょう?君ってば本当に優雅で大層なご身分だね!!たまには自分の足で登校してみたら?(もういい加減いつも突っかかりすぎて文句が思いつかないんですけど!)」
「よお、苗字。お前こそ、いつも通り機嫌が良さそうで何よりだ。嫌味ぶつけて来る暇があったら俺様くらい稼いで時間を有効に使うんだな(後で一緒に原稿文くらいなら考えてやるよ)」
そう、学内の私の立場は、跡部景吾に妬み嫉みいつも突っかかる鬼心臓の女子生徒だ。バチバチと火花を散らしたような、それらしい会話をする。
つまりうっかり罷り間違っても婚約者なんて、文字から甘い匂いのする存在ではない。
跡部を大変だなと思いこそすれ、私が彼に妬みの感情を抱くとすれば可愛い可愛い天使のような彼女がいるということくらいなもので、突っかかっていくような文句もないのだ。本当は。
だから嫌味を捻出するのもいつも大変で仕方ない。
しかし。
「景吾。そろそろ授業始まるから、急いで」
「‥‥‥ああ。そうだったな」
「いつもごめんね」
いや、悪いのは跡部を妬んで突っかかる(演技をしている)私ですよ!私ですよ!!!!
そう叫びたくて仕方ない。しかしそんなセリフを喉の奥で潰して、わざとらしく嫌な顔をする。
跡部の背後にいて優しく申し訳無さそうな顔で謝ってくれた彼女に対しても、嫌な態度を取らないといけないのが死ぬほど辛い。ほんとつらい。
月島桃香さん。跡部のかわいい彼女その人で、生徒会副会長だ。今日もビックリするくらい可愛くて大天使である。拝んでお金を差し出したい。可愛い。生まれて来てくれてありがとう。今日も生きていてくれてありがとう。
茶色のセミロングのさらさらヘアーは見るからに指通りが良さそうで、いい匂いがすることを知っている。そばを通りがかるたび頑張って嗅いでる。
顔立ちは極端に整っているというわけではない。目は大きくて潤んでいて、髪色と同じこげ茶だ。睫毛は長く、鼻は低めでピンクの唇はぽってりと厚い。下唇だけすこし尖っている。
隙のある、愛嬌のある顔だった。
胸が大きくて、足の形は整いすぎていないのが絶妙なバランスでかわいい。痩せすぎず、抱きしめたら気持ち良さそうな体型。身長は145くらいしかなく、小さい。
声は高くて、はきはきと意見を言う音は遠くまでよく通る。
大手アパレルメーカーの一人娘。
つまり、月島さんは女子にモテそうなタイプではない。しかし男子には大層モテる、そんなタイプだ。少女漫画に出てくるヒロインではなく、青年漫画に出てくるちょっとエッチな体型のヒロインと言うとしっくりくる。
また彼女の、ちょっと演技がかったようないい人っぽさ、親切さ加減が周囲の悪感情に拍車をかけ、彼女はテニス部マネージャーになってからというもの女子のイジメのターゲットだった。加えて学園の王である跡部景吾と付き合ったとなれば、イジメに遭わない理由など見つからなくなってしまったのだ。
しかし、私はといえば例外で、中学入学当初から死ぬほど月島さんのファンだった。
多分ファンという言葉だけだとライトすぎる。月島さんは推しぴしゅ尊い今日も尊い明日も尊い前世も尊い明日もありがとうの御仁なのだ。
桜舞い散る入学式のことだ。校門付近でうっかり無様に転んで膝をついた私に、優しく手を差し伸べ、優しい声で大丈夫?と言ってくれたのは彼女だけだった。周りのお坊ちゃまお嬢様にクスリと笑われてしまった私にである。
一目惚れみたいにどきどきした。青年漫画なら一瞬で恋に落ちている。
優しくて元気が良くて、嫌われている相手にも笑顔で挨拶する。そんな月島さんを見て、好きにならないわけはなかった。月島さんがアイドルでもやろうものなら、私は多分彼女を推しすぎて課金しすぎて破産している。恋愛感情かどうかはわからないけれど、それくらい大好きだった。
ことあるごとに月島さんを影からこっそり見つめては、(悪く言えばストーカーともいう)隠された上履きを所定の位置に戻したりするのは勿論のこと、取り囲まれそうな現場を事前に取り押さえては跡部のファンの子達に反撃してみたりしたこともある。
天使である月島さんに近寄ることは恐れ多すぎて、お近づきになろうなんて大層な考えは抱いたこともない。彼女を見ているだけでハッピーで世界が幸せなので、月島さんが幸せであればそれでいい。
そんな彼女は跡部のことがずっと好きで、跡部が月島さんの幸せには欠かせないピースだったりする。
だから、婚約した跡部からこんなクソみたいな------跡部にやたらと突っかかる迷惑な女生徒役をやってくれと提案された時、いいよと即答したのだった。跡部ファンのヘイトを分散させるためである。
苛烈なイジメから、大切で可愛い彼女を守るため、私は跡部によって贄にされた。つまり所詮お飾りの婚約者が自分のファンの女たちのターゲットになっても、跡部にとってはどうでもいいということである。まあ、いいんだけどね。それで。私は月島さんを守れるなら万々歳だ。前々からどうにかしてヒートアップしていく虐めを止められないものかなあと思ってはいたので、きっかけを貰えて有り難いのは確かだった。
しかし跡部はいささか、客観的に見るとクズである。私が純粋なご令嬢であれば跡部のことを刺し殺していてもおかしくない。お飾りとはいえ婚約者は婚約者だ。
もっといい男がいると思うんですけどね、月島さん。月島さんの揺れるお尻を見送りながら念を飛ばす。
跡部のどこがいいんですか。確かに欠点は少ないけどリスキーですよ。こだわりも多いし面倒なこともあると思うんですけどその辺どうですか。跡部も月島さんにぞんざいな態度でもとってみろ。あの憎たらしい長い足を蹴り飛ばしてやるわ。
「お前、また跡部に喧嘩売ったのかよ。飽きねえなあ」
「跡部が嫌いなんだもん」
「跡部のファンに殺されても知らねえぞ。俺は助けねえからな!まじで!」
「助けてくれよそこは。友達でしょ」
「自業自得に巻き込まれんのって嫌だろ」
「まあそうなんだけどさ」
「ほんと妙だよなあ。なんでそこまで色々見えてんのに跡部に突っかかんの。意味わっかんねえ」
席に戻ると、いつものように話しかけてきたのは前の席に座る向日だ。
向日とは縁があるのかないのか、中3のときからずっと同じクラスで席も近い。今では学校で一番仲がいいと言っても過言ではないくらい仲良くなった。
ふざけてかわいこぶって頬を膨らますと向日は心底気持ち悪そうな顔をした。そんな向日のことがすごく気に入っている。自分を取り繕わなくていい存在はとても楽だ。話したくない時は無理に会話を続ける必要もない。
いつもの調子で向日に後ろから、飛びつくように抱きついた。小柄で華奢で、子供体温の向日は近くにいると何だか安心する存在だ。ガーネットカラーの髪にすりすりと頭をこすりつけると細い髪がふわっと舞った。
こういうことをするから、余計に跡部のファン、テニス部のファンからやっかみを買うのだと、むしろわかっていてやっている。
「向日と付き合えたらいいのになー。別に恋愛的には好きじゃないけど」
「俺は苗字が彼女なんて御免だぜ」
「うふふ」
「ほんっと気持ち悪ィな」
「‥またお前らいちゃついてんのかよ。教室で目に毒なことはやめろ。ダセエから」
「宍戸も私とイチャついてくれてええんやで‥」
「うわこっちくんな」
怠そうに近付いてきた宍戸の男臭い体に無邪気を装って飛びついてみる。最早諦めている向日と違い、宍戸は抵抗が強めだ。大きな手にすぐに頭を掴まれてぐいと引き離された。普通に痛い。
「宍戸、女子のひとりも懐に受け入れてくれないなんて激ダサだぜ‥」
「お前はそもそも女子じゃねーだろ!」
「宍戸ひどい!泣いてやるんだから!」
「おー泣け泣け。お前みたいな女俺は知らねえ」
泣き真似しながら正妻向日の胸に飛び込むと、向日は面倒臭そうに私の頭を乱雑に撫でた。やっぱり向日がナンバーワン。
死ぬほど頭皮が痛い。ギリギリときつく引っ張られ、いくつかは千切れた気がする。どさりとコンクリートに尻餅をつくと、目の前に立っているのはモデル体型の女子生徒だ。正直私はあんまり好みじゃない。
月島さんがベストオブ天使だからな。
目の前の彼女からしたら、そんな私の好みなんてどうでもいいだろうけど。
彼女は言わずと知れた有名な雌猫の1人で、斎宮梅子という。キューティクル艶々の黒髪ロングで、右斜めに伸ばした長めの前髪。猫目のアイメイクにピンク色の厚塗りリップは、見ている分には眼福で大層な美人である。今、その目にはギラギラと嫌な輝きが宿っていた。
彼女の左右には、いつも連れている取り巻きの女子2人も一緒だ。
斎宮はGHQによって解体させられた財閥系列の分家の三女で、正真正銘の由緒正しきお嬢様だ。跡部の婚約者候補としても名前が挙がっていたという。
斎宮は見た目の通りのキツイ甲高い声で、私に向かって叫ぶように言い放つ。
「あんたに前言ったわよね!跡部様にちょっかいかけないで、って!」
「なんで私が斎宮さんの言うことをそのまま聞かないといけないんですかねえ?その時私はいって返事しました?」
「あんた‥!!!」
「いったぁ!ちょっと、脇腹蹴るのやめてくれませんかね!ゴッホ、いってえっての!マジで斎宮のおっさんに言いつけたろか娘の悪行」
「あんたにそんなこと出来るわけないでしょう!それにパパは私のこと大好きなんだから!信じるはずないわよ!」
「出たよお嬢様のノータリン発言‥いっっ」
脇腹を蹴られた拍子に地面についたままだった指を密かに踏みつけたのは取り巻きの女。ボブカットで切開アーモンドアイの草薙だ。
彼女は斎宮のようなヒステリックさのない雌猫だけあって、斎宮より厄介そうなファンの一人だ。いつも斎宮の後ろに影のようにぴったりとくっついて、虎視眈々と跡部の彼女の座を狙っているように見える。
激痛に指を引っこ抜こうと自由な腕でもがくと、そちらの腕をもう一人の取り巻きである若生が掴んで取り押さえる。いくら女子の力だろうと全体重で2人にのし掛かられるとすごくキツイ。しかも片手は指という一点集中型で、痛みに呼吸するのも苦しくなる。
「ねえ。これ跡部に報告していいかな〜」
スマホを片手に、恐らく動画でも回しているのだろう。ひょっこりと顔を見せたのはふわふわの明るい金髪の芥川だ。眠そうな目で、しかしはっきりとした口調でそう言った。
「あ、芥川さん‥」
「せっかく撮ったし、跡部には見せないと、ねえ〜」
「いや、だなあ‥ちょっと、彼女にお願いをしてただけじゃ、ないですか。私達、ここで失礼しますわ」
なんて典型的でゴリゴリの悪役の台詞なんだ。頭の中で呆れながらそんな言葉を聞く。漫画でもそんなセリフはなかなか聞かれない。
しかもそれでそそくさと去っていくところがまたすごい。猛烈に小物感を演出している。いっそ拍手したい。
離れていく痛みにひっそりと息を吐き出す。踏まれた方の指は血流が止まっていたせいか、いっきに血の巡りがよくなってじんじんする。
のっそりとした芥川の体が、スローペースで私の体を抱き上げて起こした。
「なんでゴミ捨て場の隙間なんかに連れ込まれてるのかな〜。もうちょっと警戒してよね〜。跡部に喧嘩売るってそういうことだよ〜まったく〜」
「ありがとー芥川。助かったわ。私も実は録音回してたよ。あとで動画ちょうだい?証拠集めに使うから」
「それはいいけどさ〜。‥女の子が暴力沙汰で怪我するのはどうかと思うよ〜」
「まあ、これからはもっと気をつけるってことで」
「ほんとかな〜。まったく、心配だよ」
「その割には眠そうだよね」
「起きてるから心配はしてるよー」
「相変わらず君は次元がおかしい」
半目で芥川を見ていると、そわそわ心配そうにその後ろから私の姿を見つめてくる姿があった。
見知らぬ女子生徒だ。ボルドーの淵の眼鏡をかけており、真っ黒でアイロンもかけていない素朴な髪。見るからに賢そうだ。そんな彼女の立場はなんとなく想像がついた。
恐らく特待生だろう。
「彼女が慌てて教えに来てくれてさー。部活前に一眠りしようとしてたんだけど起こされちゃったよ〜」
芥川が後ろを見ながら眠そうにそう言った。
「あの、ありがと。すごく助かった」
私も彼女に向かってそんな言葉を投げかける。
「いえ!その、お怪我が軽そうで良かったです。その、それじゃあ」
芥川もいたせいか緊張気味にぺこりと頭を下げると、慌てて立ち去っていってしまった彼女。まともにお礼も言えなかった気がする。後で探し出して、改めてお礼をせねばならない。
実は、私が学内で少々危険な目にあったり、ものを無くすなどした虐めの被害は、想定より軽度で済んでいる。
月島さんへのヘイトは斎宮を筆頭に、8割型私へと方向転換したにも関わらず。
理由は跡部にある。
跡部が財閥の力を使ってどうこうしているなんてことではない。跡部が一部の生徒から顰蹙を買っているせいである。
氷帝学園高等部は3割が高等部からの編入生だ。そんな彼らは授業料免除の、賢い特待生枠。彼らの力によってお嬢様お坊っちゃん校である氷帝高等部全体の偏差値の底上げをはかっているのだ。
しかし、この制度には問題がある。なんせお金のある家の子供とそうでない一般家庭の子供だ。混ぜるな危険。カーストが出来がちで、特待生たちは虐げられるような立場に追いやられることが多い。少数であることもあり基本的には力が弱いのだ。
学食で優雅に高い昼食をとる金持ちカーストの人間たちと、教室で持ち寄ったお弁当を食べ合う優秀な特待生の壁は予想以上に厚いものだ。
彼らにとって入学前には憧れの氷帝学園だったはずのこの学園は、金持ちたちに札束でその違いを見せつけられる空間であるというわけだ。
彼らの不満は目下、跡部景吾に向かっている。理由は明白で、彼が金持ち生徒の筆頭だからだ。アイコン的な目立つ生徒であり、派手好きの生徒会長。行事にも何かと金を使いたがる。そういった金のかかる行事のいちいちで、特待生たちは自分のコンプレックスを刺激されることを、生まれた時から富豪の家に住んでいた跡部に分かるはずもない。
つまり跡部は特待生から妬まれ嫌われており、そんな跡部に、自分たちの思っているようなことを代弁して食ってかかってくれている生徒がいる。
私のことである。
こんな縮図を産むつもりは全くなかったのだが、私は特待生のアイコン的な存在に密やかに祭り上げられているらしい。そういった経緯があり、特待生たちから私はとても好かれ、危険な事態に遭遇しようとしていると事前に察知して止めてくれたり、失くしたものを発見して手元に戻してくれたりしている。
逆に跡部のファンである雌猫には金持ちカーストの生徒が多いので、さらに嫌われている。月島さんにヘイトの矛先が向かないのは大変喜ばしいのだが、私は特待生でもないし、特待生の代表になった覚えもないので複雑な気持ちである。
「俺は部活に行くけど、苗字はだいじょうぶ〜?保健室いける?」
「芥川が寝そうで逆に心配だよ。ちゃんと部活行くんだよ」
「んー‥わかったー」
「樺地くん呼ぶ?」
「大丈夫‥がんばるよ〜」
よろよろと鞄をもって歩き出した芥川な背中を心配しながらも見送る。テニス部まで送ってもいいのだが、跡部にはテニス部にはあまり近寄らないよう言い含められていることもありそこまで行く気にはなれなかった。
さて、保健室にでも行こうか。