※柳の引越しは小学校中学年設定



ぱちん、ぱちん。

耳の裏で音がする。あの日の夕焼けに、あの日の夏の綺麗な夕焼けに、ひとりでに消えていったシャボン玉の弾ける音は、いつしか私の初恋が砕け散った音になった。


ぱちん。


正確には砕けたのではなく、私が1人で諦めた初恋だ。今でも思い出すと長くて苦しい独りよがりの。誰にも話すことはない。誰にも知られることのない。
ベランダからみた夕焼け。近くの小学校から午後5時を知らせる音楽が聴こえていた。






「おはよう丸井」

朝礼ギリギリに教室に飛び込んできたのは丸井ブン太だ。彼は強豪と言われるテニス部のレギュラーの一員らしく、女子にとても人気があった。確かに顔も可愛いし。
そしてこの男は非常に単純で扱いやすくて、ちょっと馬鹿で、多分彼と単純さ加減では同族であろう私も丸井のことがとても気に入っていた。一緒にいて気が楽なのもある。歴代隣に座った男子達の中で、圧倒的に彼が一番だ。

「よっ!斎藤。今日は俺への餌付けねえの?」

爽やかな笑顔でこんなことをしれっと口にした丸井に、早速朝コンビニで調達してきた新作のお菓子を差し出す。

「ちゃんとあるよ」
「おっサンキュー!」

そううっかり隣の席になった丸井はお菓子が大好きらしく、気づけば私の毎日の日課は丸井への餌付けになっていた。それで弾けるような笑顔を見せる丸井は可愛い。癒される。これは人気が出るのは致し方のないことだなんて納得する。
いつかこいつ糖尿病になりそうだなと思いながらもお菓子を食べている丸井はとても幸せそうだ。

「寧々ちゃんって滅茶苦茶丸井に甘いよね」
「うんそうだね、丸井かわいいからさ」
「あんまし可愛いっていうなよ!一応男なんだからな」
「わかってる、男の子として可愛いよ」
「お前それ褒めてんのか貶してんのかわかんねぇよ」

前の席の仲の良い女子も巻き込みながら話をしていると始業のチャイムが鳴り、それぞれ生徒達が席に着く。高校二年生の一学期は大変平和だった。


「そういや、俺今度の試合出んだけどお前は?みにこねぇの?」
「え?テニス部の?」
「それ以外何があんだよ。俺の天才的妙技が見られるぜ?」
「え、めんどいしいいよ‥いかんよ‥」
「斎藤俺に甘いんだろい!見に来いつってんの!」
「なんでだよ‥丸井とカフェに行こうぜ的なノリで試合観戦だよ‥カフェならともかく試合はいかねえよ‥」
「俺と菓子はセットじゃねえとだめなのかよ」

「丸井、ちょっといいか」

丸井とぎゃんぎゃんと昼休みに騒いでいると、長身の青年が話しかけてくる。私との会話を中断し、丸井がなんだよ柳ーと口にしたので私は手持ち無沙汰に押し黙り、自分の右手の指を見つめた。ちょっと爪伸びすぎだな。さすがに切ろう。

「今度の土曜の試合の詳細だ。部の時に改めて説明するが、早めに渡しておこう」
「おー、わざわざありがとな柳」
「……………」
「どうした柳」

ふと自分の前にゆっくりと落ちてきた影を見つめると、すぐ近くに男子生徒が立っている。そして昔から変わらない、開いてるんだか開いてないんだかわからない目で私を見ていた。確かに。

「……………」
「………………」
「…………………え?なに?」

怪訝そうな顔を作り柳蓮二を見ると、柳ははあっとため息を1つついた。相変わらず失礼だな。

「今日の晩、うちに来ないか。俺の部屋で、話がしたい」

「…………はい?」

隣の丸井もびっくりしたように柳を見ている。周りの席の住人達がにわかにざわめいた。なんせ柳蓮二は有名人で、立海で知らない人間はいないほどなのだ。常勝テニス部のレギュラー常連。成績優秀で頭脳明晰、おまけに背が高く涼やかなイケメンだ。ちょっと糸目ではあるが。

「なんで私が?柳の家に?」
「‥………話があるからだが」
「……私の方には特にないけど。あるならここで話したらいいんじゃない?柳の家なんて知らないし」
「…………………」

私は性格の悪さが滲む嘲笑で柳を見る。彼は押し黙り、その場から颯爽と去っていった。

「………え?斎藤と柳ってなんか接点あった?すげえ雰囲気悪かったけどどうした」

心配そうに覗き込んでくる丸井には良く知らんと返しておいた。周りのギャラリーにも。

「なーんか柳って苦手なんだよね。丸井と違って分かりづらいし」
「それ褒めてんの貶してんの」
「めっちゃ褒めてるダイスキマルイ」
「棒読みやめろい」





中学一年の夏だった。適当に蓮二の本棚から一冊小説らしきものを手に取る。夏目漱石は苦手だったけれどそういえば蓮二は好んで読んでいたかもしれない。でもやはり馬鹿な私にはさっぱり良さがわからないと思いながらパラパラとページを捲る。文字はほとんど目で追っていなかった。
襖を開けて自室に帰ってきた蓮二に「おかえりー勉強教えて蓮二」と口にすると、蓮二は整った眉をひそかに中央に寄せる。
蓮二に話しかけると蓮二が決まってする仕草だったけれど、その日を境に、その仕草を見てあ、もうやめようと思ったのだ。この恋を。
恋を終わらせたのは唐突だった。けれどどこかで私の心は擦り切れ疲れ切っていた。蓮二はおそらく私のことが苦手だ。口数が少なく賢い蓮二は馬鹿な私を相手にするとき、こっそり溜息をつく事も多かった。
多分このときまで、私と蓮二の関係性を枠におさめるのであれば、幼馴染に近しいものだったのだろう。私はいつだったか近所に越してきた柳蓮二という少年を、一目見た時からとても気に入っていた。女の子みたいに華奢でかわいくて、賢くて。いい匂いがして、蓮二と呼び捨てにするのはすぐだった。
登校班が一緒だったのをいいことに一日中忠犬のように付け回し、テニスのルールを覚えた。華奢な体で綺麗なスマッシュをコートに打ち込むのを見ていた。女の子のような指が、考え事をするときに頬を少しだけ掻くのを。笑う時に目尻が下がるのを。
口にしたことは一度もなかったけれど、私は柳蓮二が大好きだったのだ。
蓮二と違い私は勉強が苦手でスポーツも苦手、正直取り柄などほとんどなく、蓮二がため息をつきながら教えてくれても出来ないことも多かった。クズで馬鹿な自分が嫌いになる。蓮二も私を嫌いそうな仕草をするのが何より辛かった。それでも蓮二が好きで。
中学に入ってからは学校での接点がほとんど無くなり、蓮二の自室で帰りを待つことも増えた。そんな日々の続いた夏の日だった。私がこの恋をやめようと思ったのは。
私はどうしてこんなに頑張って、自分のことが嫌いな人に話しかけているんだろう。蓮二が好きで、大好きで、尊敬して止まなくて、でももう溜息をつかれるのも嫌そうな顔をされるのも嫌で。

「蓮二」
「なんだ」
「私さ…」
「………………?」
「なんでもない……ごめん」

「もう帰るね、邪魔してごめん」
「ああ」

帰ったら久々に童心に帰り、しゃぼん玉を飛ばして遊んだ。とくに涙は出なかった。もう会いに行くのをやめよう。話しかけるのもやめよう。そういえば蓮二は自ら私に話しかけてきたことなどほとんど無い。なんだ、私から関わりを断てば終わる関係だったのか。友達でも、幼馴染ですらなかったんだ。

ぱちん、ぱちん。

背が高くなっていく柳を遠目で見かけるたびに、耳の裏で音がする。

ぱちん。



ぱちん。



もうようやく音はしなくなった。





「悪い斎藤、これ渡しといてくれんか」
「えっ……えっちょ、仁王?!どこ行くの?」

放課後廊下を歩いていると、仁王に大きいラケットバッグを渡された。仁王は飄々とした笑みを浮かべて走り去って行く。唐突すぎてぽかんと口を開いたまま立ち竦んでいた私はそのまま仁王を見送ってしまった。え、なにこれ。

ラケットバッグをよく見るとM.Buntaと刺繍してあり、これが丸井のものであると知る。え、なにこれ。何度も言うけどなにこれ。バッグはなかなかの重量できちんと中にラケットが収納されているようだった。
分からないけど丸井を見つけてこれを届けたらいいわけだ。分からないけど。本当に仁王は意味がわからない行動が多いなと首をひねる。丸井がいそうな場所に見当をつけた。テニスコートしかない。
気がすすまないなりに放課後のテニスコートに向かう。近づいてくるとパカンパカンとボールの跳ね上がる音がする。懐かしさと窓から見える夕陽の眩しさに目を細めた。
小学生の頃は蓮二を見たくてテニススクールによく足を運んだ。今となっては胸を痛めつけることもないただの思い出。

「丸井いません?」

ギャラリーのいない隙間からそっとテニス部員と思わしき男の子に声をかけると、男の子は怪訝そうな顔をする。ラケットバッグを持ってきた旨を伝えると、慌てて丸井を呼びに行ってくれてホッとした。

「斎藤!どうした」
「なんか仁王がさー丸井に持っていけっていうから持ってきたー」
「はぁー?なんじゃそりゃ」
「知らんし意味わからんけどあげる」
「いや元から俺のだからな?それ」

丸井が近寄ってくる後ろには柳と真田と幸村がいた。嫌なメンバーだ。視線を丸井にだけ合わせて丸井と会話をする。

「ほい、練習がんばれ」
「わかんねーけどありがとよ」

「寧々」

柳がまたしても私に声をかけてきた。本日2回目。謎の行動すぎて無視した。幻聴かなんか聞いたんだと思おう。丸井は柳の方に振り返っていて私が無視して歩き出したことに気付いていない。

「寧々!」

柳は先程より大きな声で私を呼んだため、諦めて足を止め、視線だけ振り返った。

「………何?」
「…………話が、したいのだが」
「何の?ここじゃ出来ないの?」
「………幼馴染と、ひさびさに折り入って話がしたい」
「私にはないけど?」
「俺にはある」
「いやだといったら?」
「…………お前は、俺が嫌いなのか?」
「好き嫌い以前の問題じゃない?」
「え?」


久々に柳と話をしたら、あっと言う間にストレスゲージが溜まってしまった。普段こんなに怒りっぽくはないのに。柳ってこんなに無神経な人だっただろうか。嫌い?柳の方が私を嫌いだったでしょ。あれだけ眉を顰められて。物凄い勢いで地雷原を踏み倒された気分だった。
あのとき諦めた虚しさや悲しみが蘇る。
苛立ちをそのままに、ガシャン!とフェンスに手を叩きつけた。指がジンジンと痛む。
視線をきちんと合わせた柳が目を見開いていた。

「私から話しかけないと話もしない関係はそもそも幼馴染って呼ばねえんだよクソが。頭いいのにそんなこともわかんねえのかよ!その小さい頭に詰まってんのは何なんだよ?!?!」
「……………」
「データマン名乗んなら幼馴染の定義書き直しとけよ!お前が!二度と!幼馴染語んな!」

くそ!ともう一度目を見て吐き捨て、(苛立ちをあらわす語彙力が足りない)呆然としているギャラリーの横を通り抜け家路へと駆けた。
たぶん小指折れた。痛いなこれあーもう二度とやらない。二度と蓮二にも関わらない。決めた。