いつも通り、学校に向かう朝だった。

黒のシンプルなパスケースに入れていたはずの通学定期が、忽然と姿を消していた。どこで落とした。
どこにある。鞄の中か。

ぷしゅう、と気の抜けた音を立て、いつもの緑のバスが口を開いて、客が乗り込んでくるのを待っている。
列に並んでいたわたしは、呆然としたあたまのままタラップに普段通り足を乗せ、整理券を手に取った。
一つだけまだ空いていた席に体をすべり込ませると、ガサガサとキャメルの鞄の中身を漁る。
昨日買ったガムのコンビニのレシート。友達に貰った飴。何かの包装ビニール。教材以外ゴミしか入っていない。
大きな溜息をついて頭を抱えた。家に帰ってそれでもなかったらどうしよう。
取り敢えず、定期のことは後で考えるとして。今はこの整理券と一緒に入れる乗車賃が必要だ。

現金は持っている。財布の中身を確認した。千円札が数枚と、310円。
そう、310円だ。100円玉が3枚と10円玉が1枚。

わたしの自宅の最寄りのバス停から、氷帝学園前のバス停まで、現金にして320円である。つまり10円足りない。
ここの路線はちょうど、この辺からすごく混みだすのだ。はっと気が付いた時にはもう遅い。窓の外には大きな駅がある。
サラリーマンや氷帝生がバタバタと乗り込んできて、席を立つのもままならなくなった。
この混雑の中をすいません...なんて人混みをかき分け運転手の脇まで両替をしに行くことが出来るメンタルは、生憎と持ち合わせていない。
降車時に一番後ろに並んで千円札の両替をするのか...朝の通勤通学ラッシュ時である今、乗客にちくちくとした目で見られるんだろうということは容易く想像がつく。
今からその瞬間のことを想像するだけで憂鬱な気分になった。いやだなあ。

あと考えうる手段は、知り合いに10円借りるかである。

そう、例えばわたしの右側にすらりと立つコイツに、とか。日中屋外にいるわりに、あまり日に焼けていない腕。足元に重く落とされているラケットバッグ。
ちらりとその顔を伺い見る。するとまるで目線が合うのを待っていたかのように、彼の茶色のさらさらとした前髪から覗く目は皮肉気に歪み、わたしをバカにするように鼻で笑った。すくみあがって目線を逸らす。
なぜここにいる。朝練はどうした。うえ、という倦厭するような声を奥歯のそのまた奥で噛み潰した。

わたしと日吉若の相性は決していいとは言えない。日吉のこの、爬虫類のような雰囲気があまり得意ではない。得意ではないというのは、たぶんオブラートに包んだ言い方だからよそう。単に苦手なんである。
そう話した回数が多いわけではないものの、日吉もわたしを好き好んではいないだろう。
そういえば、家から出てくる前のテレビの星座運勢ランキングの順位はあまりよくなかった気がする。そういう類のものはあまり信じてないけども。

「なんだ、いくら足りないんだ」

日吉はわたしの右手の人差し指と親指の間に挟まれた乗車券を見て、独特な声で言った。左手には財布を握りしめ溜息をこぼす女を見て、なんとなく状況に予測がついたらしい。

「え、と、あの10円足りなくて」

千円札はあるんだけど、その、両替がね。ここでは、したくないじゃない。仏頂面でぼそぼそとそう言うと、しょうのないやつだな、と日吉は、制服のポケットから彼の財布とおぼしきものを取り出した。
え、まじで。もしや貸してくれるのか日吉。一転目を輝かせて期待感に手のひらを差し出すと、ほら、と予想外に男っぽい指から乗せられた慈悲の10円。ぴかぴかの銅色。
綺麗に使っているらしい見るからにお高そうな財布を、日吉はポケットにしまいなおした。持ち物がおおよそ中学生らしくないのがいかにも日吉らしい気がした。

これほど日吉に感謝した日はない。そもそも親しくないんだけども。冷たくて不遜な印象しかなかった日吉から優しくされてとても感動した。多分、不良が雨の日に猫を抱き上げているシーンを見たときに感じるものに似ている。

たった10円されど10円。ありがとう日吉。ありがとう。

「100倍にして返すんだな」
「え、100倍。100倍....」
「そんな簡単な計算も出来ないのか?マヌケめ。1000円にして返せ」

10円が1000円か。氷帝まであと15分くらいなのに悪徳金融より高い利子である。
彼に貸しを作ると大変だなと戦慄しながら日吉に1000円札を差し出すと、馬鹿か冗談もわからないのかと呆れられたのでほっとした。

すっかり優しい人認定をしてしまったので、暇だし日吉の顔を眺めてみることにした。目つきは悪いものの、すっと綺麗に通った鼻筋ととがった顎を見たら横顔は結構きれいだよなあと思う。
するとむずがゆそうに、ある種気味悪そうになんだ?と言われたのでううん、と首を振ると舌打ちされたので顔を見るのはやめた。



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こいつは一体何なんだ。じっと見てきやがって。近所の猫でも一度餌をくれてやったくらいでは懐かない。いつも俺に怯えきっていたはずの斎藤をたった10円で買収したような気になった。もちろん、買収したかったわけでもないのだが。
別に嫌いなわけじゃないが特別話したいと思ったこともない、そんなポジションにいたのがこいつだったはずだった。
気まずいような雰囲気のまま氷帝前に到着する。朝から顔見知りが悲壮な表情を浮かべていたとはいえ、話しかけるんじゃなかった。思わぬ不運にぶち当たってしまったような、若干の後悔に見舞われていると、後ろからぐい、と俺のテニスバッグを斎藤の腕が引っ張る。

「奢ってあげる!お礼に!」

えらく斎藤の目が光っている。そんなものは要らないし10円はくれてやるから突然懐くのはやめろ。お前俺のことが苦手だっただろう。そう心の中でひとりごちて、また舌打ちをした。

「どれがいい?」

跡部さんほどじゃないがこいつもなかなかの厚顔無恥だ。さっきの舌打ちは聞こえなかったのかと言ってやりたいところではあるが、斎藤の善意しかないような笑顔を見て気が抜けた。こういう手合いの人間には何を言ったところで無駄なのだ。
連れてこられた自販機の前、無難にお茶を指差すと斎藤は意気揚々と千円札をそこに突っ込んだ。ガコンと勢いよく落ちてくるペットボトル。
はい、と手渡されたそれはいつも通りひんやりと冷たくなっている。そして斎藤の、ペットボトルの水滴のついた指先から10円玉も渡された。濡れた硬貨。
神経質な俺はそれに苛立ちを感じ、斎藤の頬にペットボトルを押し付ける。

「つめたっ!」

悲鳴をあげさせたことに溜飲が下がり、やはりそのマヌケな顔に思わずふ、と笑うと斎藤は恨めしげな顔で俺を見た。いい気味だ。

「ねえ日吉」
「何だよ、用事が済んだならついてくるな。お前は犬か」
「犬じゃないけど、これからは仲良くしようよ」

10円の恩もあるしさ、と一転へらへら笑う斎藤。恩を売ったのは俺であるはずなのに、礼の気持ちをこうも押し付けられることになろうとは思わなかった。
最早面倒になり適当に頷くと、斎藤は満足げに笑った。


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