感情に名をつける

「名前ちゃん」
「ゆみちゃん」

朝、通学途中の坂で背後からクラクションが聞こえた。振り向くと、柔らかいウェーブの黒髪を綺麗にセットしたゆみちゃんが運転席の窓から顔を出している。

「学校まで送ったげる!乗って?」
「え、いいよそんな」
「いいからいいから」

後続車が来ていたにも関わらず引かないゆみちゃんに諦め、慌てて車の助手席に乗り込んだ。ゆみちゃんの車は不二家のいい匂いがする。
サイドボードにはカメオのついた白いケースに入ったコロコロが置いてある。ルームミラーには見覚えのない、真新しい可愛いリボンのチャームが揺れていた。

ゆみちゃんは私にとって理想の大人像だ。

「これから出勤なんじゃない?時間大丈夫なの?」
「問題ないよー今日はメイクの乗りがよくって、早く出てこれたから」
「そうなんだ、ありがとう」

メイクに命をかける彼女らしい台詞に笑った。ゆみちゃんは正直職業柄を除いても不思議な人だと思う。お隣の不二家三姉弟の長女。
周助は昔から王子様で、裕太は悪戯を一緒にする友達。ゆみちゃんは実のお母さんよりもお母さんだった。お姉ちゃんというよりも近く、友達というには遠い大人。悪戯をしかられ、優秀な成績をとれば頭を撫でてくれる。

「ねえ、前から気になってたんだけどさ」

ルージュの乗った綺麗な唇が、言いづらそうに話題を口にした。

「んー?なに?」
「…名前ちゃんて彼氏いないの?周助とも裕太とも仲良いけど、そういえばそういう話聞いたことないじゃない?」

恋愛の話するの、歳考えると遅いんだけど。首突っ込みすぎるとお節介だと思ってごめん。あまり見ない神妙な顔でゆみちゃんが語ったので、驚いた。そして頷く。

「そういえばそうかもね」

不二家は第2の家族だ。家にいることが少ない忙しい両親にかわり、面倒を見てくれた。小学生の頃はよく入り浸り一緒にご飯を食べた。たまに泊まって姉弟と一緒に眠る。こんな姉弟が欲しかったと思いそれを口にしたら、うちの子でもあるでしょと言ってくれる家族。こんな存在がいてくれて、私は幸運だと心から思う。気付いたら側にいる当たり前の人たち。
周助も裕太も幼い頃からテニスに夢中で、恋愛の話をする関係にはなかった。小学生の頃は仲の良さにからかわれもしたものの、もはや彼らは家族だったため一緒にいることが普通だった。異性として意識したことはあまりない。
ゆみちゃんはそういった、恋愛の話題を口にするには、私にとっての彼女は大人すぎた。それに中学生の頃の淡い片想いは、叶わないとわかりきっていて、相談するのもなんだか憚られたのだ。

「彼氏は今でもいないけど、私は手塚先輩が好きだったんだよね」
「………ん?!手塚?!手塚先輩ってあの手塚くん?!」
「そう、あの手塚国光先輩だよ」

ゆみちゃんがギョッとした声を上げるので、苦笑いをする。
はあ、手塚くんね、ああいうのがタイプなんだというので、そうみたいと返した。

大人っぽい、周助と同じ一つ年上の先輩。自他共に厳しいストイックな声。周助のテニスももちろん好きだけれど、手塚先輩のテニスは刺すような正確な美しさがあって、一目見てすぐに憧れた。視界にその姿が入るだけでときめいた。手塚先輩はとても人気があり、周助を介し会話をしたことはあれどこの想いは叶わないと分かりきっていた。テニスに人一倍夢中な、そんな彼が好きだったのだ。もっと正確に言えば、私を見ることのない手塚先輩が好きだったのだと思う。
彼がドイツに渡ったためそんな姿を見ることももう無くなり、想いを告げることなく私の片想いは勝手に終了した。


一人だけそんな無駄な片想いを知っていた人がいる。仲のいい女友達ですら知らない片想いを。

周助だ。

「ねえ、手塚が好きなんでしょう」

放課後の教室だった。見慣れた青と白のレギュラージャージに身を包んだ美しい幼馴染は、前の座席に勝手に座り、優美に微笑んだ。
窓からテニス部を眺められないかと模索していた私は驚き、周助を見つめる。

「ボクにキミのことでわからないことなんてないよ」

私の思考を読んだようにそう口にして、誘惑した。おいで、と。

昔から周助は王子様だった。裕太は名前は兄貴のいうことは何でも聞くよなとぼやくほど、私は彼に服従している。多分、覚えていない出会った頃から彼と私には上下関係がついていたのだ。王子様と下僕。
王子様は基本的に優しいけれど、無意味に甘やかしてくれることはあまりなく、下僕にワガママをしては困らせることを楽しむ節がある。唐突に髪の毛を引っ張ってみたり、私の分のおかずを取ってみたり、勉強を教えてもらってもたまに間違った答えをあえて植え付ける。
面白がった裕太が彼の真似をしてみせると、私は裕太には怒って仕返しをする。喧嘩するその様子を王子様は高見から笑って見ているのだ。

そんな周助の優しい腕を振り払おうと思ったことは一度もない。ニコニコと浮かべるその笑みの裏にある思考を読めたことも一度もないけれど、彼は私を無闇に傷つけることはないことを知っている。おいで、という合図をそのまま受け入れ、抱きしめられた。男の人の腕の中が安心できることを、私は彼に抱きしめられて初めて知った。あの瞬間の私は、下僕というより夜の蛍光灯に集まる虫のようなものなのだと思う。習性のようにそこに当然のように張り付くもの。

手塚先輩への恋愛感情と、周助との関係は私にとって同じ次元にはない話なのだ。


「手塚くんみたいな大人っぽい子はなかなかいないだろうけど、いい恋がまた出来るといいね」
「んーそうだねえ…もしかしてこのストラップ、ゆみちゃん彼氏からもらったの?」


ルームミラーから下がる女性らしいリボンに触れると、ゆみちゃんはわかった?と可愛らしく笑った。

私もそんな風に素敵に笑える恋がしたいと思う。

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