人は自分という人間を自分たらしめてきたものを捨てたとき、一体どこに向かうのか。
自分を構成するものは、一体なんなのだろう。
古代ギリシヤの哲学者があげたであろうような問題に、大真面目でこの歳で直面することになろうとは、思ってもいなかった。
と、大仰しく語って見せても、中身はそんな大層な問題ではない。そんなもの、自分でよくわかっている。思春期にぶつかりそうな、よくある話だ。
そしてこれが他人から見たら些細な悩みにすぎないということは、自分自身が一番よくわかっている。
そしてその悩みを解決できるのは、自分だけであるということも。
「参謀、もうデータは取らんのか」
仁王がベンチで隣に座りながら、グリップエンドをコートに押し付けている。
その日は曇りがちで、雨が降りそうだった。曇天。そんな言葉が一番似合いそうな空模様だとぼんやり思う。こんな風に曖昧なことを考えるのは、ひどく久しぶりな気がした。
「ああ、俺はもうデータは取らないだろう。少なくともノートにデータを書き込んだりすることはもうしない」
俺が応えたその言葉に、仁王の顔からはすこんと表情が抜け落ちた。
「お前さんのテニスって何じゃ。いつだったか言うとったじゃろ。己のテニススタイルを捨てた時点で負けとるんじゃと」
「ああ」
「柳。お前、負けたいのか」
「仁王、あんま熱くなんなよ。柳にだって考えてることがあるんだろぃ」
すぐ近くで会話を聞いていた丸井が止めに入り、ヒートアップしていた仁王はそれきり口を噤んだ。
仁王はよく俺を参謀と呼ぶ。いい意味で一目置いていてくれていたのは良く分かっている。
それでももう、俺には勝つことが出来ない。本来であればこのテニス部に、テニスコートに立つ資格すらない男だ。それでも俺は捨てきれない。
この居場所を。テニスを。生きてきた人生の大半を注ぎ込んできたものを。
酷く中途半端で虚しさを抱えている。
仲間の各々がプロテニスという選択肢を捨て、ここにいる。常勝立海のベストメンバーで、プロへの道を諦めなくてもいい者も多くいたにも関わらず。
俺の場合はというと、純粋に力量が足りなかった。三強などと呼ばれていても精市や弦一郎の実力には遠く及ばない。そして、努力によって彼らを追い越すことも無い。
そう、自覚してしまった。
データを収集し生かすだけでは駄目だった。上には上がいることを思い知ることが多くなった。勝てるかもしれないと、可能性を弾き出すことが出来なくなった。ただそれだけだった。
決して自分の努力が足りないとは思わない。毎日机に向かった。来る日も来る日も頭の中にはテニスがあった。データを収集し、まとめ、対戦相手の対策を練った。練習をこなし、試合に出場した。中学高校と全国大会優勝を経験した。それは俺一人では到底成し得なかったことだ。しかし俺がいたからこそ掴んだ勝利もあったとも自負している。
あの六年間は誇り以外の何物でもない。
それでも、今後の俺の人生にテニスは無い。あったとしても、その勝敗が人生を左右するような大きなものでは無いことは確かだ。上を目指さなくてもいいテニス、負けたらあとがないような緊迫感のないテニスというものは酷くつまらないのだと知ったとき、データを集めることは意味を無くした。
これからの人生の選択肢はもちろん考えてはいた。しかし、知識としてあることと実際に経験することでは全く違うように、今まで情熱を傾けてきたものが手のひらから零れ落ちていったとき、柳蓮二という人間が自分でもよく分からなくなってしまったのだった。
テニス以外にも勉学に励んできた。好きなこともある。それでいいと言い聞かせても、お前はしっかりしているからと当たり前のように頼られる度に、俺はどんな人間だっただろうかと考える。今まで俺は自分に自信があった。だがその自信の理由は。
俺がデータを集めてきたのは、全てテニスの為だった。テニスで勝つために。仲間が勝つために。
今まで積み上げてきた柳蓮二がこれからの人生の邪魔をする。
それを、データを捨て去ったとき。
俺には一体何が残るのか。
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