アップのランニング中に靴紐が解けたため途中で立ち止まり結び直していると、木陰から面白そうにこちらを見て笑う赤也と丸井がいた。
これは俺にとっていい話をされていない確率は、と考えたところで頭を振る。
もの言いたげな彼らに静かに近寄ると、丸井がにやにやとした笑みを深めながら言った。
「柳、派手な彼女がいるらしいじゃねえの」
「赤也、お前だな」
この前買い出しを見られた話かと溜息をつき、赤也を見ると彼は肩を竦めた。
「彼女じゃないって言ってましたけど、柳先輩が理由もなく女といるとは思えないんスよね」
「具体的な理由がないと女子と一緒にいたらいけないのか。お前の感覚はまるで小学生だな。冗談を言いふらすのも大概にしろ」
「でもこの前、すげえ仲良さげだったじゃないっスか」
「赤也には親しい女子がいないのか?」
「いますよそんくらい」
ふて腐れた様子で口を尖らせた赤也に呆れる。よく知りもしないことを確定的に言えるものだ。彼に女友達がいることくらい知ってはいるのだが、思わず皮肉が口をついてしまう。
現時点確かに苗字は俺の一番親しい女子ではあるが、会話をする女子くらいは他にもいるというのに。
それに理屈っぽい自覚はあるが、人といるのに理由がいると思うほどやさぐれているわけではない。
アップを再開すべく走り出すと赤也と丸井が後ろからついてくる。抜かさないペースで、しかしすぐ後ろに。結びなおした白の靴紐がアスファルトの上で揺れる。うんざりとした気分だ。
丸井が懲りずに話を続ける。
「いやでもよ、そいつ柳と口喧嘩してたとか言ってたろぃ。どんなやつか見たいよな」
「丸井先輩みたいな赤い髪で」
「それはさっきも聞いたっつーの」
「あー説明が難しい!柳先輩、いっそあの人連れてきてくださいよ」
「頼めば連れてくるとでも思ったのか?そんな無駄な期待はやめることだな」
ついと後ろを見た瞬間、赤也は何故かあからさまに苛ついた。
そして。
売り言葉に買い言葉のようなものだった。勝負で赤也が勝ったら彼女を連れてきてほしいと請われ、それには無視したはずなのだが。
アンタにテニスを諦めさせてやると言われた瞬間いいだろうと口にしていたのだ。どうかしている。
俺はテニスを捨てたのではなかったのか。
コートに立つ赤也のテニスは非常に単純明快だ。行動パターンに予測できないものはない。悪魔化する瞬間も、天使化する瞬間も見ていれば分かる。何年も積み重ねてデータをとってきた。もうなかなか手に取ることのできないあの小さなノートの中に、彼のデータは事細かに書いてある。そのテニススタイルはよく知っている。黄色いボールを追いかけ、面でスライスして返す。変速して返ってくるボールには以前より力がついている。
こいつは、まだ強くなるのか。
リードしていたはずの試合が、じわじわと追い詰められていく。首を絞められていくように視界がじんわりと黒くかすんでいく。体力がないわけではない。精神力の問題だろうと、俯瞰する俺が心の中で呟いた。
また、負けるのかと。
試合の中で成長する男がどれだけ恐ろしいか、俺はよく知っているはずだ。随分弱くなったものだ。いや、赤也が強くなったのか。
負けてしまうだろう、そういつもの諦念を抱えながら勝手に体はボールを追いかけ、走る。それはきっと、本能に近い、体に刻まれた感覚だった。
「諦めんじゃねーッ!俺が追いかけてきたアンタは!こんなもんじゃねえんだよッ!」
赤也のひび割れるような激昂に、ボールをコートに叩き込んだ。瞬間、何も考えていなかった。
「ウ、ウォンバイ、柳!」
審判をやっていた丸井がそう言った。
勝ったのか。俺は。
頭の中で何か弾けたような気分だった。ゼエゼエと荒い息を吐き出す。いつもより多く汗をかいていた。瞼にかかった雫を払う。
必死になって勝って、俺は何を得たのだろう。分からないが、妙に頭がすっきりとしていた。
「はは、まだアンタには敵わねぇや‥。
俺、いつだって、アンタに無駄な期待なんてしてないっスよ‥そんなんしたこともない。柳先輩は柳先輩すから」
そう笑う赤也の汗だくの手を取る。赤也の顔に浮かんだ諦念は俺と同じものだった。
テニスに悩み諦めた男は何も俺だけではないのだと、とっくに知っていたはずだ。いや、知っていた、分かっていたつもりだったというのが正しいのだろう。
情けなさに奥歯を噛みしめる。
こいつは。こいつはまだ、俺に、先輩という期待をしてくれていたのだ。
そうだ、俺は、そう期待されて生きてきて、率先して応え続けてきた。それが今の俺を作った。
「参謀」
「仁王」
仁王に参謀と呼ばれたのは久しぶりな気がした。審判席の近くで試合を見ていた仁王はおかしそうに、いつになく素直な顔をして言った。
「参謀はやっぱりデータじゃな。データがなかったら最初のリードはなかったぜよ」
「ああ、....そうだな」
「データを捨てたと言いつつ、お前さんがやっとるのはデータテニスじゃ。データを捨てたら参謀じゃなかよ」
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