夏目漱石の妻、鏡子は悪妻であったとも言われている。
当時の理想の妻像と彼女の振る舞いは、随分とかけ離れていた。
鏡子は笑う時には口に手を当てたりせず、快活で我儘であった。家事も不得意だった。しかし見合いの席で、ある意味規格外と言える彼女を漱石はすっかり気に入ったという。
夏目夫婦には逸話が数多くある。鏡子が初めての妊娠の際にヒステリーを起こし入水自殺しようとしたところ、漱石がそれを止めずっとお互いの手首を糸で繋いでいたこと。漱石が神経症を悪化させ家庭内で暴力を振るっていた時、鏡子はそんな漱石と離縁せず症状が良くなることをただ待っていたことなどだ。
残された互いの手記や手紙にはよく悪口が書き連ねられている為、真相のほどは分からないが、妙なところで不思議と支え合った夫婦であると言えるかもしれない。
また、かの有名な坊ちゃんの作中には、下女のキヨという女が登場する。「坊ちゃん」にとって彼女は可愛がってくれた下女なのだが、作中で数多く登場する人物の一人だ。
漱石の妻鏡子は、本名をキヨという。
坊ちゃんはある意味鏡子へのラブレターのようなものとする説もある。
そんな鏡子だが、朝にひどく弱かった。漱石は留学先のロンドンからの手紙で、鏡子に幾度と無く朝は早く起きるようにと促している。
「朝は少々早く起きるように注意ありたし。夏目の奥さんは朝九時十時まで寝るとあっては、少々外聞わるき心地せらる。つとめて己れの弊を除くは人間第一の義務なり。かつ早起きは健康上に必要なり」
しかし鏡子は飄々とした態度で、それを改めることはなかったということだ。
ベッドの上に散らばる赤い髪。青いシーツの上に浮かんだ冴えるような赤は、この部屋の色彩の中でも一際鮮烈だ。
最近ふと思う。几帳面で神経質だった漱石は、そんな妻を見ていてどのような気持ちだったのだろうかと。
手記に書いてある通り、勿論苦々しく思ってはいたことだろう。
漱石と鏡子はまるで雪と墨であり、性格が正反対だった。しかし、互いに惹かれる瞬間があったのも確かだ。
「おい、起きろ。朝だぞ」
「うー‥」
彼女の燃えるような赤の髪に触れながら、自分自身の声が部屋の空気に、想像以上に優しく響いた。
苗字を朝起こすのはすっかり俺のルーティーンに組み込まれている。むずがる苗字をだらしないと思いつつ、起こさないという選択肢などない。
彼女は俺のタイプの女性ではない。むしろ嫌いなタイプである。
苗字は時間にもお金にもルーズだ。この前課金しちゃったからお金ないわ、とヘラヘラ笑っている。友人にごめん10分遅くなる!と電話しながら玄関から飛び出していくのもよく見る光景だ。
しかし、気付けば彼女はひっそりと心の内側にいる。じわじわと毒するように。そっと寄り添うだけの優しさや、境界線を越えない慎重さ。人を素直に賞賛する表裏のない笑顔。
彼女の欠点も、長所も、痛いほどよく知っている。
自分自身が変わっていく。変えられていく。正反対の性格と思える人間の手によって。
「気付きたくは無かったんだがな‥」
ぽつりと口に出す。
漱石も、自分とは正反対の鏡子の家庭を思いやる心や、ふとした瞬間に出す強靭さなど、自分にないものに惹かれたのではないだろうか。
そっと苗字の頭を撫でてみる。一定のペースで上下する胸。
涎が垂れた寝顔。髪はボサボサでお世辞にも綺麗とは言えない。
それでもそんな彼女が好きだと、気付いてしまった。
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