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「ねえ、柳ってすごい気持ち悪かったんだね」

ベッドの上で寝転がりながら、携帯の液晶画面を見つめていた苗字が苦笑いを浮かべた。唐突な暴言に目を眇める。
背中には薄いカーテン越しに、ガラス窓の冷たい温度が沁み込んでいた。

「幸村様から聞いちゃったよ、柳ってすごいデータマンなんだって?」
「ああ、そのことか。まあ、すごくはないがな」

ちょうど俺の手の内にあったのは経済の分析学について纏めた本だ。久々にそのジャンルの本を手に取った。
やはり、興味深く面白い。
俺は「データマン」だ。今ならそう言える。
データのことを誰よりも信じている。それを生かした上で勝利することを、仲間からも期待されてきたデータマンだ。
殻を破ろうとしたって、どうしたって。データを捨てることは出来なかった。

どう足掻こうとデータというものから、俺は逃れることができないと分かった。
テニスは勿論好きだ。人生そのものだった。
しかし、それ以上に俺は蓄積するデータに魅力を感じ取り憑かれていたらしい。勝利するという目的と同じようにデータ収集という過程は目的化し、必要になっていたものだったのだ。

俺は情報を分析することに、毎日の楽しみを見出していた。

テニスとデータというものを俺はずっと切り離すことが出来ないでいた。
それから逃れようとするのは、もうやめようと決めた。自分の積み上げてきた自分自身から。思考を邪魔をしていたものと向き合う決意がようやく出来た。

仁王が笑って言ったように。赤也に言われたように。あの試合で決定的に悟ったことがあった。
俺はデータが好きで、それを捨てたら俺ではなくなる。
そしてそれを諦めてはいけない。それが俺だからだ。

それは最後のパズルのピースだった。
他のピースは、ほとんど苗字が集めてきた。そのことを、彼女は知らない。

ベッドの上でごろごろと苗字は姿勢を変えながら微かに唸る。

「なんだ、聞きたいことでもあるのか」

最近自分の気持ちに気付いてから、苗字を今まで以上に観察するようになった。だから今の彼女のふとした仕草からそんなことも分かってしまう。

「…なんで、わかったの」

少し泣きそうな、驚きの混じった笑顔で苗字はぽつりと口にする。

だって聞いたら、だめだと思って。



青春を賭して追いかけてきたテニスへの情熱を失ったとき、俺には何が残るのかずっと考えてきた。

苗字は無意識に、素直に賞賛した。そんな情けない俺でも、降り積もるように少しずつ。
柳は料理がうまいよね、畳んだ洗濯物が綺麗だよね。器用だよね。頭がいいよね。へらへらと笑いながら。
俺は自分でもよく分からなかったのだが、自信というものをすっかり失っていたのだ。

俺を知っている人間は誰でも「柳蓮二」はそれが出来て当然だと思っていることを、何の情報も持ち得なかったこいつは何でも驚いたように、簡単なことでも俺を褒めた。
あのタイミングでこいつに出会ったのは、幸運だったとしか言いようがない。

データもテニスも捨て何も残っていなかったはずの俺は、手の内から零れ落ちていたパーツを拾いあげるように、徐々に「柳蓮二」を思い出していた。俺はそんな人間だったのだと。
そして、先日の試合。これまで積み上げてきた知識やデータは決して無駄にはならないはずなのだ。そしてこれから積み上げていくであろうデータも。
意味を無くしたと思っていたものは、切っても切り離せない、足掻いても手放せない俺そのものだった。そんなことにさえ、俺は気付けなくなっていた。

それが分かって初めて本当の意味で、テニスに対して諦めがついたと言えた。
テニスを失っても、勝利への執着が無くなっても、もう俺は生きていける。
今までの俺に、しなくて良かったものなど何もなかったのだと気づいたからだった。

「お前は俺のことを何も知らなかった。その方が都合が良かった。
ただ、それは今でもそう思ってるわけではない」

彼女についてよく知らないことが嫌だと思うことのほうが、いつの間にか増えていた。これは人間の真理とも言える感情なのだろう。俺は人間に戻ってきたのだ。
自分の気持ちを自覚してからは尚更だ。
彼女のことを知りたくても、俺のことを知って欲しくとも、口約束したわけでもない最初に作った互いの距離感が邪魔をする。
今もそうだ。彼女に聞いたら駄目だと思わせ、俺も今まではそう思ってきた。

「……………うん」
「もう少し整理がついたら、話がしたい。苗字には返しきれないほどの恩がある」
「どう、したの急に」
「本当のことだ。茶化しているわけじゃない。信じろ」

立ち上がり、寝転がる彼女に近寄った。くしゃりと赤い髪を撫でる。
泣くのを堪えるどこか傷ついたような顔で、苗字は俯いた。そんな顔をさせたいわけじゃない。眉を寄せる。
情けない俺を知っているお前に、全部話せる日が来たらいい。いや、きちんと話す日を作ろう。その日の為に出来ることをしよう。どう感じて、どうお前に助けられたか。どれだけ感謝しているかを。




実家に帰り、自室の扉を開ける。過去に積み上げて来た俺自身は、確かにここで呼吸をしていた。

久方ぶりに本棚へ伸ばした指先は少し震えていた。自分でもひどく情けないことだと思う。思い切りそれを掴み、バックパックの中に詰め込む。
ようやく触ることが出来たこれは、ここではないあそこで開きたい。

あいつが笑って、おかえりと口にするあの狭いアパートだ。

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