実家に行っていたはずの柳が、大きなバックパックを背負って戻ってきた。
いつもの無表情はどこか疲れたように陰っている。目を丸くしてその大荷物を見てしまった。細い肩にカーキの太めのナイロン生地が食い込んでいる。実家じゃなくてキャンプにでも行っていたんじゃないだろうか。中にキャンプ用品が入っていると言われても、きっとわたしは疑問を抱かない。
彼は、今度は一体何を持ってきたのか。既に彼の持ち込んだ文庫本はこの部屋の隅に積み上がってはいるけれど、柳は将棋も趣味だとジャッカルから聞いたので将棋盤とかかもしれない。わたしは将棋は出来ないのでひとりで遊んでもらうしかないが。
柳のそのバックパックは今まで見たことがなかった。
彼の持っているカバンの内容はわかりやすい。几帳面な彼は当然鞄の中にレシートを残しておいたりもしないし、用途によってカバンを使い分けている。
ノースフェイスのリュックは教材用。YONEXのバッグは勿論テニス用。マンハッタンポーテージのメッセンジャーバッグは、必要最低限の財布やハンカチティッシュ。
着ている服もいつもシンプルで、わたしのごちゃごちゃした部屋や服は柳の好みでないことは知っている。
少しものを散らかしただけで、柳は眉を顰めながら片付けも得意じゃないのか?と口にするからだ。
そういった些細なことで、わたしたちは正反対の性格をしているなとよく思うのだった。
柳はわたしの不思議がる視線にふと笑って、重そうなバックパックを下ろした。見た目通りの重いドサっという音がして、フローリングに底面が擦れる。彼が勢いよくそのジッパーを開けると、中には手帳型のノートが大量に敷き詰められていた。
見ていいのか見たらいけないのか分からず、押し黙ったまま視線を彷徨わせると、柳が小さく手招きした。不審に思いながらも近寄ると、柳の繊細に見える大きな手がわたしの右腕を掴んで引き寄せる。強制力のない、柔らかい力だった。
「柳‥?」
「…………」
問いかけに答えはない。ただ彼の顔はいつになく強張り、引き結ばれた唇が細かく震えていた。理由は分からないが、何か大切なことをしようとしていることくらいはわかった。
彼の手を掴んで一瞬腕から離させると、その手をぎゅっと握ることにした。
柳にそれくらいをする愛着はある。一緒に暮らしているのだから当然だ。しかし、この瞬間初めて知ったことがある。柳の手が予想より大きく、じっとりと湿っていて、厚いことだ。
柳は一瞬呆気にとられたような顔をして、そしてかんばせを少しだけ綻ばせると、緊張した様子で鞄に詰められた一番上のノートにそっと触れる。片手で器用に、ぱらりぱらりとページを捲る。
几帳面な、神経質そうな文字がびっちりと埋め尽くされたそれ。時たま図解するように妙な矢印や記号が並ぶ。スコアと思しき数字が踊っている。
そこにぱたりと落ちる雫は、確かに柳が生み出したものだ。柳は隣でひっそりと泣いた。歯を食いしばって音を立てないよう、静かに。
わたしはその瞬間、柳が何か壁を超えたことを悟った。
たまにひっそりと動けなくなって、ただ丸くなって朝を待つ柳の横たわった姿を瞼の裏に思い浮かべた。彼がああして思い悩むことも、もう無いのかもしれない。置いていかれてしまったなと何となく思う。どうしてそんなことを考えたのかは、自分でもよくわからないけど。
本当は知りたかったことを何一つ聞けないまま、彼はそれを解決してしまった。
どうして悩んでたの。何をそんなに苦しんでいたの。どうして、アパートの前で、捨て犬みたいに座ってたの。
目を閉じて、柳の小さな頭を引き寄せ抱きしめた。あつい雫の温度が肩に染み込んでくる。
そっと、指通りのいい柳の黒い頭をなんどもやさしく撫でる。
きっともうこんなことをすることもない。柳はもとから、不出来なわたしとは違う世界の住人だ。ちゃんと分かっている。
ありがとうと、柳は小さく呟いた。それはわたしの台詞であることを、恐らく彼はずっと知ることはない。
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