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この部屋を出ることを決めたのは、なんてことはないいつもの午後だった。

苗字との暮らしが嫌になった訳ではない。むしろ逆だ。

ズルズルとこのまま流されるのではなく、彼女と向き合って、思ったことをすぐに口にできる関係になりたかった。
苗字が何を思い、俺が何を思うのか。
互いに呆れたり呆れられたりはしているものの、そうでなく、より深いところで理解しあえる関係でありたかった。
それに、居候の立場であることも歯痒く感じていた。これは決して同居ではない。ましてや尚更同棲なんて甘いものでもなかった。
家賃を払っているとはいっても元々ここは彼女の家で、一人暮らし専用の賃貸だ。

今後の自分について思い悩み、全てを放棄するように眠る俺に彼女は声をかけてきたりしなかった。理由を聞いたりなどしない。
現状、彼女は俺のことを他人だと思い干渉しないでいるのだろう。目指す関係性ではそうではないものにしたい。彼女がどうしたのかと、理由を問うてくれるような、関心のおける関係になりたい。そして俺もそれに包み隠さず答えられるような、互いに信用のおける関係。
付け加えるなら、彼女と誠実に付き合える恋人になりたいのだ。

その為に全てをリセットする必要があると感じた。一度明確な距離を置こう。
始めに作ってしまった距離感を、無くしたかった。



この部屋を出て行くことは既に苗字には伝えた。
彼女はそっか、と薄く微笑んだだけだった。その回答に何だか少し寂しさを感じるような、身勝手な気持ちになる。
苗字にとっての俺は、いったいどんな立場にいる男なのだろう。直接疑問をぶつけたかったが、それは時期尚早な気がしてならず躊躇われた。

自分の荷物はそれなりに多い。最近持ち込みだしてしまった文庫本、日々の着替え。少しずつ荷物を増やしてきたのだと実感しながら段ボールに荷物を詰め、それらを自宅に郵送することにする。
部屋の中は多少すっきりしたものの、俺の荷物がなくなったところで苗字らしさのあるゴチャゴチャした部屋のままだった。

一時的な別れはやけにあっさりとしていた。じゃあね、と彼女はいつものようなへらへらとした笑顔で玄関先で手を振った。いってらっしゃいという挨拶でないのが、いつも通りではなかった唯一の点かもしれない。
今までありがとう、のちに礼は尽くすと俺はそう言って、この部屋から足を踏み出した。

ここが俺にってのスタート地点のつもりだった。

致命的なほど、互いに言葉足らずだった。

苗字に予め伝えていたはずの感謝の言葉を、このままでいいと思っているわけではなく、いつか全て話すと言った言葉を信じてくれていると、勝手にそう思っていた。だからこそこの部屋を出ていくとき、何も言わなかった。
今まで何か言わずとも適切な距離が置かれていたから、こいつなら分かってくれているという過信があったのも事実だった。

忘れていたのだ。
俺たちは、他人だった。それも性格が真逆の、赤の他人。






こういう時、どうしたらいいのかわたしは知っている。サイトやゲームのオフ会で知り合ってきた男の人たちもそう。いっとき深い関係になって、面倒になったらどちらからともなくポイと捨てるのだ。

でも今回はちょっと痛かった。
あのキッチンで柳は文句を言いながらパエリアを作ってくれたよなとか。さっきまでそこに夏目漱石の本が積み上がってたよなとか。
毎朝のように柳は起こしてくれて、おはようといってくれた。朝ごはんを食べながら猫背を治せと怒られて。
あのテレビの前でぴんと伸びた背筋で、綺麗な指はコントローラーを握っていた。あの洗濯機の前で、柳は。部屋中そこかしこに柳の記憶が染み付いていて。
今にもその高身長が振り返ってわたしを呆れた顔で見てきそうだった。

最初から柳はわたしとは違う世界の人だろうとは分かっていた。彼は優秀で、わたしとは違う。
彼は知らない。
いつだったかわたしなんかに救われたと言っていたけれど、救われていたのはわたしの方。寂しさで泣くのも、わたしのほう。
だからモラトリアムから立ち直った彼は、こんなにもあっさりいなくなった。救われたなんて、出鱈目な台詞だけ残して。
家族みたいに呆れながらも優しくしてくれて、じわじわと心の中に居座ったくせに。

元から彼は友人でもなんでもない。もう柳とわたしは、正真正銘の赤の他人だ。

わたしはひとり勝手に、惨めで馬鹿らしい気持ちになっていた。
柳と暮らすことで何が変わったのか。何も変わらないつもりだったのに、情ばかりがあのひとに移っていた。

たまにむかつくと思って蹴ったりしたけど、わたしはあいつのことを気に入っていたのだ。完璧主義で堅苦しくて、真面目で蘊蓄屋で几帳面な彼のことを。

出て行くと言われて、そうかこの時が来たんだなあと思った。理由は怖くて聞けなかった。でも何となく分かっていた。
他人の支えが不要になったからだ。
柳は多分、親しい人に弱みを見せるのが嫌だったのだ。
だからあんな風にあの雨の日、ダストボックスの隣で、ぼうっとしながら座っていた。孤独感と挫折にまみれた顔で。
赤の他人にしか彼の深淵を一瞬でも見せられなかったのだ。プライドが高くて繊細で。
そして結局、あの堅物なひとが何を悩んでいたのか、ここでなにを思っていたのか、わたしは最後の最後まで知らないままだった。
それがすごく、悲しかった。それでいいと思っていたくせに、ほんとうに馬鹿だ。柳のことを、もっと知りたかったなんて今更。

その日の夜、わたしは柳がいなくなってしまった寂しさに泣いた。この部屋は独りよがりの海だ。
この寂しさを柳に押し付けたりはしない。悩みから抜け出したはずの彼をズブズブこの暗闇の中に引き込もうとしたりしようなんてしない。


今までと同じだ。そう、今までと。

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