家から出て行ってほしそうな、帰って欲しそうな雰囲気を醸し出す彼女を無視し、見慣れたワンルームに居座ったのは頭の中を整理するためだ。
そういえば、苗字に拒絶されたことは一度もない。
心底嫌そうな顔をされたことも、今まで一度たりとも無かった。
あんな表情を見たのは初めてだった。苛立ったような不安そうな、不安定な顔だった。
観察癖がこんなところで、こんな形で役立つとは思わなかった。
いや、今はむしろなかったほうがよかったかもしれない。
苗字から、苦手だと言っていたはずの煙草の匂いがした。
女友達かもしれないが、朝が異様に苦手なくせに、好き好んで行った友人宅であればこんな時間に帰宅するはずがない。
苗字は髪色こそ派手でいささか暴力的だが、好んで人と衝突するタイプではない。
つまり先ほどまで彼女は、好きでもない男性と一緒にいた可能性が高い。
胡乱な目つきでお風呂はいってくる、と宣言した苗字は大量に入れた入浴剤とともに今現在浴槽に浸かっている。
今までともに暮らしていた期間は、恋人でも友人でもない関係であれば長い期間だったはずだ。その中で苗字が夜遊びして帰ってきたことはなかった。俺が起きて帰りを待っていたせいもあっただろう。
起きてなくていいのにと苦笑いしながら、必ず夜には帰宅していたのだ。
彼女には恋人の影もなかったはずだった。
どうしてか連絡が取れない彼女が心配で、滅多に実家にも寄り付かないはずの苗字の居場所を考えていた一晩。メッセージの返信はマメなタイプではない苗字だが、ふらりとアパートの前にランニングがてら立ち寄ると電気もついておらず姿がなかったのだ。
ストーカーじみている自分の行動に自嘲しながら、このワンルームの前から動けなかった。
軽率に、他人にうちにおいでと言ってしまえる彼女が事件に巻き込まれてはいないかと。俺を部屋の中に引っ張り上げたときのように。
それでも今、目が冴えていた。彼女は誰のものでもない女なのだとはっきりと自覚していた。どこにいようと拘束する権利は今の俺にはない。
スタート地点に立ったと思っていた。これから彼女と新しい関係を始めるのだと思っていた。
しかしそれは俺が勝手に一方的に思っていたことで、彼女には一切そんなつもりはなかった。
俺はどこかで驕っていたのではないだろうか。俺のことを、彼女はよく理解してくれている。だから、俺の気持ちも決意も、口にせずとも分かってくれているのではないだろうかと。
そんなはずはない。彼女と俺は、全く正反対ともいえる性格を持つ他人だ。
相互理解のためには、会話が不可欠だ。
彼女が何を思っているのかを知りたかった。
まんじりと、座りながら彼女が浴室から出てくるのを待つ。
「柳、帰ってなかったの。本見つかったんでしょう」
赤い髪から雫がたれている。風呂上がりの彼女の腰のラインは服の上からでもよくわかった。
目には拒絶の色。
「苗字は、昨晩男と遊んでいたのか」
「だったら、なに?柳に関係ないって言ってるでしょ」
ここに来た当初、何も聞くなと俺も拒絶の雰囲気を作り上げていたであろうことを棚に上げ、苗字の唇に噛みついていた。頭の整理は出来たはずなのに、嫉妬した。
じわりと血の味がする。力強く胸を押されて抵抗され、頬を叩かれた。瞬間そこは熱を持つ。
「あんた、何してんの?」
「…………………………」
「別にさあ、....ここに来たばっかりの柳に、襲ってもいいって言ったこと、あるけどさあ。あんたはもうここから出ていったじゃん。なんなんだよ」
「苗字が好きだ」
「うるせえ」
目の前で苗字が涙をこぼした。
テレビの感動系番組で彼女が泣いていたのは何度か見たことがあったが、己が好きな女を泣かせるのはさすがに心が痛かった。
「頭の整理がついたら話がしたいと言っただろう。お前のことが好きだ。だからこそ一度離れたかった」
「はは、一緒に暮らしてたら好きになりましたって?」
「そうだ。お前のいいところも悪いところもよく知っているが、苗字が好きだ」
「たった一年やそこら、大した会話もしてねえのにわたしの何を知ってんだよ、なあ。わたしは柳のことなんてこれっぽっちも知らねえよ」
「じゃあこれから知っていったらいいだろう」
じわりとまた泣きながら、彼女は首を振る。もうむり、もうがんばりたくない。そう子供のように呟いて。
しゃがみこむ彼女を抱きしめた。煙草の匂いはすっかり消え去り、入浴剤のやわらかな匂いがする。グズグズと震える苗字に、何故これほど拒絶されているのか分からなくなった。
テニス部の仲間も、親さえ知らない俺を彼女はきちんと知っている。その上で、特別好かれてもいなかったかもしれないが、俺は苗字に嫌われてもいなかったはずだった。その認識さえ、俺の勘違いだったのだろうか。
何が彼女のスイッチを押したのだろう。よく、わからない。
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