38
目の前に立つユカさんは、サロンエプロンを巻きながらにっこり笑って言った。

「今日ね、あんたは休みだから」
「ん?え?いやいや」

カウンターの机に立てかけてある出勤表。
おおむねひと月ごとに出るシフト表だが、二週間ほど前に「この日は出勤してほしい」と急遽店長に言われ、特に予定もなかったのでいいですよと返事をした。

そして今日のランチタイムの四角内に、わたしの名前が付けたされたはずだった。
わたしも自分のスケジュール帳にバイトの三文字を書きたしたのだから間違いない。

「ここに名前書いてあるじゃん。ほら」
「休みなもんは休みなんだよ。だから二階行ってきて。つか一緒に行こうか」

頭の上にはてなマークを大量に浮かべたまま、ユカさんに腕を引かれ彼女に付いていく。

まだランチ営業が始まる前の午前十時。大きな古い窓ガラスから差し込む光で、中二階へとあがる階段はその飴色をさらにキラキラと輝かせていた。
まだついていない照明の中で、それはとても美しくて目を細める。純文学の中の景色を体現したかのようだった。

「あんたさ、柳蓮二のこと好きでしょ」
「ハ、ハァ!?」

そんな美しいバイト先で突然何を言っているんだこのひとは。おい今滅茶苦茶純文学な気分だったのに!
度肝を抜かれて慄いたのも一瞬で、立ち止まることを許さないかのように力強く腕を引かれる。
履き潰したバイト用のスニーカーで、一歩一歩階段を上がっていく。その足どりは断頭台に向かう死刑囚のように覚束なかったかもしれない。たたらを踏みながらついていく。

ユカさんと色恋の話などはろくにしたこともなく、先日はじめて聞いたのは、柳がわたしの周囲を嗅ぎまわっているという爆弾話だった。それを全力で柳は他人だと否定したのも記憶に新しい。
テニス部のファンであるユカさんは当然柳のことも知っていたけれど、ふぅん?と首を傾げながら一応納得したはずではなかったか。

何故今その名前が出てくるのか、わたしにはさっぱり分からない。
しかしユカさんは薄く微笑んで、からかうようにポニーテールを揺らしたのだ。

「なんか柳さんがちょっと哀れだから。協力したくなっちゃって。名前も柳の名前出したら分かりやすいし、両想いならなんも問題ないかなと思ってさ。おせっかいしたくなったわけ」
「‥‥‥?!は!?なにそれ!おせっかい?!ってなに!ユカさん!どういうこと、全然わかんないんですけど、バカでもわかるように説明して」
「私テニス部大好きなんだよね」

全然説明になってないけど。
ユカはイケメンが大好物なんだった、とよく知っていたことを改めて思う。薄い微笑みから一転、舌なめずりするような深い笑みを浮かべた彼女に、ぽいと投げ出された中二階の狭いスペース。

瞬間二階だけパッと照明が付く。

何回もわたしが掃除した覚えのある、小さなオレンジ色の鈴蘭のランプ。壁には昔の神奈川の店舗周辺の景色の写真が貼りつけてあって、中二階にくるたびにタイムトラベルしたかのような感覚に陥るのだ。
飴色の床、丸テーブルの上には真新しい真紅のシーツがかかっていて、その上には二つのワイングラス。

ここでプロポーズするカップルを何組か見てきた。結婚記念日なんです、と笑った夫婦の顔も。みな幸せそうな顔をして帰って行って、自分にはないであろうとそんな未来は想像することも出来ず、ただ幸せをわけてもらったかのようにわたしも笑ったことだけを覚えている。
美味しい料理と可愛い空間、満足のいくサービス。
その幸せの手伝いを出来たことだけが嬉しくて。

向かい合わせのふたつの席の片方のそばには、見慣れていたはずの柳が立っている。そしてわたしを見おろしていた。

そこに初めて見たときのような冷たい色はなく、ただ何を考えているのかもよくわからなかった。
頭の中がシェイクされたかのように混乱する。どうして柳がここにいるのかもよくわからないし、これがどういった状況なのか最早全く分からない。

え、ほんとに柳?

わたしは柳を好きだという自分の感情を受け止め切れてもいないし、むしろこの瞬間にもそんな感情など霧散してなくなってしまえと願っているのだ。

そんなものはあっても重いだけだと、痛いほどよく知っているのだから。

好きな人なんてほしくない。愛なんてもういらない。愛されたいなんて思ったらいけない。
そんな願望はいやだ。おもい、いらない。願わない。
願ってなんかいない。

だから柳の事なんて見たくもなかった。それなのに。

|
top