「なにこの契約書、こわいよいらないよ仕舞ってよ」
「本当にいいのか」
「いいに決まってるでしょ」
柳がテーブルの隅に置いていた契約書は、交際するにあたり文字通り全部柳のせいにしていいというものだった。全部俺のせいにしろ、という柳の言葉は本気だったのだ。
交際において、わたしに全権力があるかというような内容。わたしが柳からの愛を感じなくなったら柳のせいにしてよく、わたしが挫折を感じても柳のせいにしよく...とまあ枚挙にいとまがない。
ええ、と正直ドン引きどころの騒ぎではなかった。当然サインしなかった。こんな下らないことで正式書類作らないでもらえませんかね。
そうか、と言いながら柳は書類をしまったのだが、この契約書を作成する羽目になった柳の知り合いの法学部の生徒はどういった気持ちだったのだろうか。柳のことを今でも友人だと思っていてくれたらいいのだが。
というか、柳は実はわたしのこと、滅茶苦茶好きなのでは...?実はドン引きするような重さで好きなのでは...?ということにわたしは思い至り、なんとも言えない気持ちに陥った。あれ、もしや既に選択ミス...。
「ねえーそろそろランチ終わるけど、ご注文はァー?」
注文おせえんですけど、とユカさんが若干苛ついたような顔で階段からあがってくる。そういえば、泣いたしお腹が空いたような気がする。柳と数秒目が合い、苦笑しあった。
「あーはいはい、付き合うことになったんですね、オメデトウ」
「ユカさん....面白がって嵌めといて、なんでそんな態度なの」
「むかつくなあ〜」
「ええ...」
「冴島、感謝している」
「柳さんよかったですねー!今度幸村様ちゃんと紹介してくださいね!絶対ですよ!」
「ユカさんからハートが飛んでいる....」
イケメンに対して現金な態度のユカさんに白目を剥きながら、ビーフシチューを頼む。柳も同じものを注文して、話の続きに戻った。
今後の付き合いにおける、わたしの不安の回避についてが主だ。
物凄く単純なことだけど、とにかく一番の解決方法は、不安になったらすぐ言うことだ。心を曝け出すのは、簡単なようでいてきっとすごく難しい。
これまでの柳やわたしに出来なかったように。
わたしたちの間には今までも圧倒的に会話が足りなくて、それを補うのが最優先事項とされた。柳も思ったことはすぐに言うと真剣な顔をして言葉を紡ぐ。
「あと浮気はしないで欲しい」
「しないよ‥」
「他の男と手を繋ぐのもキスも避けてくれ。どうしても寂しくて耐えきれないときは言ってくれ」
「そんなワガママ言わないよ‥」
「我儘は耐えるのに今の苗字が向いていないだろう。あまり耐えるな。そういったことを積み重ねると関係が壊れる、もしくは深刻な喧嘩をする確率は98%だ」
「あ、わたし我儘言わないとダメになるんですね、わかりました」
柳とこんなに長く話しをするのは初めてだ。一緒に住んでいたのに。
くすぐったいような、不思議な気持ち。
「おらよビーフシチューだよさっさと食いな」
「ユカさんが冷たい...」
「ビーフシチューはほかほかだわよ」
「そんなん見ればわかるって..」
湯気を立てる美味しそうなビーフシチューとサラダ。目の前には好きな人。大好きなバイト先。
昔、まだ勉強を頑張っていたとき。こんな風な、憧れの景色を本の中で見た。
それはわたしにとって、家庭というフィルターを通して見たものだった。
冷たいごはんとわたしに会話のない食卓ではなくて...わたしのことを見てくれて、ごはんが美味しいと言い合ってくれる両親や弟との幸せな景色を夢見ていた。
それは叶うことはなかったけれど。
柳にテニスという夢中になれる目標が叶わなかったものと一緒で、わたしも前に欲しかったものは手に入らなかったけれど。
「この料理もうまいな」
「うん...おいしいよね...店長の自信作なんだ」
手を伸ばしてすぐ。柳はこんなに簡単に、憧れに似たものを叶えてくれた。
何処かで諦めて、でも別の好きなものを見つけて‥
目を伏せて茶色いビーフシチューを掬って、ひとくち食べる。
望んでいた幸せは‥当たり前のようで、全然当たり前じゃないこと。
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