05
「ただいま〜…」

もうすぐ日付も変わろうかという、夜の23時。
いつものようにアルバイトから帰ってきて我が家の玄関をくぐると、いつも通りならばおかえり、と返してくれるいやに耳障りのいいあの低い声がなかった。
電気はついておりアイツの靴もある。どうやら、出かけている訳ではなさそうだ。
そもそも、柳はわたしとは違い非常に律儀なので出かけるときは必ずわたしに連絡を入れてくれるはずなのだ。不思議に思い首を傾げた。
そのまま靴を玄関に脱ぎ捨て、靴箱やらキッチンの配置で玄関から一見見えにくかった部屋に入る。そこには、女性用の布団を巻きつけた大きな体がフローリングに横たわっている。
やはり180センチ強ある身長の持ち主にはその布団では手狭なようで、体を折りたたんでいても足首から先は外に露出していた。少し寒そうである。剥き出しの白さが眩しい。そろそろ男性用の布団を買ってもいいかもしれない、と思いながら、柳が布団に困っているだとか欲しいだとか口にしたことはないので購入しないままでいる。柳がそんなことをねだることはないだろうと分かるくらいには、柳のことは把握しているつもりではあるのだが。

彼のいつも閉じているように見える細い目は、今も眠っているようでいて恐らく眠っていない。

「柳」

心持ち優しく彼に声をかける。柳はもぞもぞ動いて顔を枕に埋めた。

「柳、体調が悪いわけじゃないんだよね?」

こくん、と頷くような、幼子のような仕草で頭が上下した。
手を伸ばし、さらさらの痛み知らずな黒髪を撫でる。癖のない美しい髪。同じシャンプーを使っているはずなのに、いつも柳の髪はさらさらなのだ。許すまじ。ブリーチを繰り返したわたしと違って処女毛であるせいもあると思うけど、それでも、なあ。柳は持っている側の人間だと改めて思う。
羨ましい、恨めしいと謎の念を込めながら、何度も彼のやわらかい髪を撫でつける。
柳はこういうときだけは、わたしに何も言わずに黙ってされるがまま撫でられている。物言わぬ動物かぬいぐるみのように微動だにしない。

その小さな頭を見ながら、この前のテニスコートに浮かんだ線の細い背中を思い出した。

宙に掲げた手。辛子色のジャージ。肩の筋肉が躍動して、まっすぐ、コートの白線の少し内側を跳ねた黄色の線。
何もわからないままに終わっていた試合。ただただ、あのまっすぐな線が脳に焼きついてしまったように残っている。
少し暗く見える顔で静かに汗を拭った柳を見て、彼の苦悩の一端に触れてしまった気がした。急いでフェンスから手を離す。力強く網を掴んでいた指先が痛んだ。
かじりついて試合を見ていたわたしを見ても、隣に立って同じ試合を見ていたユカは黙ったままだった。

柳の頭をひとしきり満足するまで撫でまわすと、いつも通り入浴して動画を見たり、夕飯を食べたり、ゲームをしたりする。電気を消す時にだけ一声かける。柳はなにも言わなかった。もしかしたらもう本当に眠っているのかもしれない。なんとなくそう思った。

バイトから帰宅するまで、柳はいつも飼い犬のように起きてわたしの帰りを待っている。玄関を開けるとあたたかい光とともに、おかえり、と出迎えてくれる。
朝早く起きるのが好きらしい彼に、勝手に寝ていても構わないと言っても、無事に帰ってこないと心配するだろうと真顔で返されたことを思い出した。あの瞬間は、なんともむず痒く恥ずかしかった。
家族か何かかと。決してそんな関係ではないのに。

そんな柳は時たま、死んだように布団で丸くなっていることがある。
ただ黙って目を瞑り、じっとしている。それはさながら、冬眠が終わるのを待つ森の動物のようだった。わたしはそんな柳になにも言わない。いつも通り何も変えず暮らすことにしている。

彼が何かに、深く悩んでいることは知っている。それくらい注意して観察しなくともわかるくらい、彼の苦悩はわかりやすいものだった。しかしそれをあえてほじくり返すように、こちらから聞くのはマナー違反だと知っていた。
わたしと柳はそんな距離感で生きていない。

わたしが柳の苦悩の核心に触れる日など、恐らく来ない。

そして近いうちに、わたしたちを繋ぐ、芥川の蜘蛛の糸より細いであろう糸は裁ち消えるのだ。

暗闇に染まるベッドの中、そっと目を閉じた。

明日になれば彼はきっといつも通りの顔をして、起きろと口にするのだ。

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