10
いつだってしていたのは他愛もない会話だ。
友人とも、家族とも、彼とも。

特別なことなんて何もない人生だった。
ただそれでも、あれはわたしの人生だ。

「シャツ、いい写真撮れた?」

短髪の、触るとつんつんと手が痛くなりそうな堅そうな黒髪。彼の構える一眼レフを背後から覗きこむ。
シャツの愛用のカメラはSONYのものだった。ざらついたその黒のボディは、彼が持つと洒落ていて可愛く、素敵でこれ以上ないものに見えた。
シャツのセンスが好きだった。私服や、小物も。彼の選ぶものはなんだって。
重そうなフルサイズレンズが揺れ、シャツが顔をあげる。のっぺりとしていて、特に整っているでも崩れているでもない、それでも優し気な和風の顔だった。

「ん。どう?」
「わあ、いいね。きれい。シャツは構図のセンスがあるよね」
「勉強中ですから」

彼の見せてきたカメラのフレームの中におさまっていたのは、揺れるブランコだ。背後のぼけた緑と剥げた遊具の色はなんともいえないコントラストを醸し出す。どこか物寂しくて、美しい。
彼の写真はいつでも魚眼やトイカメラなどで遊びすぎないのに、風景そのままであってそのままでない。彼の撮る写真が大好きだった。

ほら、向こうも撮りに行こうと、自転車に乗ったシャツが林の奥を指さして笑う。わたしもそれに笑い返してついていく。緑のにおいを嗅ぎながら、きしむ自転車を漕いで。




自宅に暗室はない。そのため自分の手で現像は出来ない。
今日撮ってきた多くの写真をまとめてbluetoothでパソコンに送る。
バス停の、自分の中でよく撮れたと思える写真をプリントアウトして、床に並べてみる。
ベンチの塗装の禿げた質感がよく見えるものは写真としては可愛らしいと思うのだが、絵に描く際には全体像が見えたほうがバランスがいいだろう。
全体の写真でも、バス停を背後の斜面から撮影したものと、正面からそのまま撮ったものでは全く雰囲気も異なる。斜めから撮って海が見えるようにしたものもある。

いつも絵を描くときは要素を詰めすぎて、画面がごちゃごちゃとしてしまう。
以前口が酸っぱくなるほど、構図はシンプルにしろと美術担当の顧問に言われたのを思い出す。あれは高校生の頃だっただろうか。

どちらにせよ写真は写真、絵は絵だ。そのまま描いたのでは模写であって、面白みがないと思う。
最初はやはり引き算をしておくべきか考えて、悩んだ末に結局自分の好きなように描くことにした。
そうと決まれば、絶対に海は欲しい。

海の青が見えるようにした、斜め後ろから撮影したものだけ抜き取って再度プリントして並べる。
そして参考にする一枚を決めた。
夕方の微妙なオレンジと青。ベンチの古い質感の茶色。時刻表示板の鉄の黒。

A4の紙一面にプリントアウトしたものを、クリアファイルに挟みこむ。
描くのが楽しみな気持ちの中で、いつまでも写真を撮るのも絵を描くのも上手くなれない、消化しきれない気持ちがある。ごろりと床に横たわった。

帰宅してから自分の写真を見返したときいつも思うのだ。センスがないと。勉強したところでもとのセンスがないものはどうしようもない。シャツだったら、きっともっと綺麗に撮れた。
あのひとになりたかったと、どうにもならない願いを呟いて、きつく目を閉じた。

そして、またわたしは夜の鎌倉へ走りに行く。