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美術室の机に通学鞄を置いてエプロンをしめると、油絵を描き始める準備にかかる。
絵を描き始める前が、一番どきどきして好きな時間だった。


まず、木枠の上にキャンバスを張る。油絵はキャンバス布に描くことが一般的だ。木枠の側面に、タックスというビスのようなものを打ちつけて布を固定する。
最初の一片を固定するのは簡単にいくのだが、わたしが苦手なのはこの後だった。
初めにきっちり張りを出さないと、筆を乗せたときに布が弛む。そうなると描いているときにその感触がとても気になってしまう。色をのせるたびにそれではかなわない。だから、最初の作業は大切だった。

不器用に足の間に木枠を挟み込んで布を引っ張るわたしを見かねてか、部長でもある尾川先輩が手伝おうか?と声をかけてきてくれた。素直に頷き、手伝ってもらうことにする。

「ねえ、今年は何を描くの?」
「バス停を描こうかと‥」
「またカメラを持って撮ってきたの?」
「そうです。海の方まで行って‥」
「へえ。今から完成が楽しみだな」

先輩はやさしげな顔でそう言った。彼女がその話を覚えているのを、珍しいと思いながら。その話をしたのは、去年の事だったからだ。尾川先輩は珍しく記憶を引き継いでいるようだった。
彼女が木枠の辺を固定してくれている間に、反対側の辺にビスを打ち込んでいく。ごんごんと重い音と一緒に、布が四角形の形を作っていく。
うまく張れたね、と尾川先輩は綺麗に笑った。やわらかそうな髪がなびいているのが眩しかった。

薄汚れたパレット。乾いた古びた絵筆。瓶に入った溶き油。銀色のころんとした油壺。形の違うペインティングナイフ。絵を描くのに使う道具をキャンバスの脇の机に並べていく。
新調の自分の画材を使う人もいる中、わたしは古い美術部の備品をそのまま使っていた。
わたしは古いものが好きだ。そこに宿る記憶に触れることができる気がして。
読み取れたことは一度もないけれど。

溶き油の匂いを嫌って油絵を倦厭する人もいるほどの独特な香りは、かえって油絵の重厚感あるイメージを膨らませてくれる。

迷って、マチエールにすることにした。下地に敢えてテクスチャをつけることで、画面に表現をつけることだ。
白をたくさん出して、画面にペインティングナイフで思い切り削るように白を塗り込んでいった。少し乾いてきたら、モデリングペーストなとで更に凹凸を追加する。
じっくり納得のいくまで重ねて重くしていく。




その日、夢を見た。今所属する美術部よりもっと古いその教室。
公立高校の美術室だ。見慣れるほど通った。

黄ばんだカーテンが風に吹かれて揺れている。並ぶのは安そうな茶色の長机。
大量の石膏像が無表情でわたしを取り囲む。
美術室の奥にある扉から、ひとりの男が出てきた。丸眼鏡に白髪で、べらんめえの江戸口調で話すのは、かつての美術教師だ。

「おんめえ、こんなんじゃ美大なんてうがんねえよ」

へらへらと笑った彼に指さされたわたしのキャンバスの後ろには、モデルにしていた石膏像のアレースがいた。ギリシア神話オリュンポス十二神の一人。軍師であり、凶暴で残忍な性格。わたしは彼のことが苦手だった。

何故そんなにも絵が下手なのかと、彼は固定の表情のまま、いつもの通りわたしを責める。
下唇を噛みしめると、うっすらと血の味がした。

自分ではどうしようもないのだと彼に言い訳をして、真っ黒な鉛筆でぐしゃぐしゃとキャンバスを塗り潰した。