19
消毒液のにおいには、もう慣れてきた。
優しく気遣ってくる養護教諭の声にも。
窓にかかるクリーム色のカーテンは閉じられていることが多い。そんなこともよく知っている。
白い、右上にへこんだ傷のついた保健室の見慣れた机の上には、今は数学の教科書や参考書、ノートが乗っている。
パステルグリーンのシャープペンシルは持つと中指の骨が当たって痛いけれど、六角形の形がなんとなくお気に入りで愛用していた。
「ここに、xを代入して...」
細い指先がとんとんと数式の上を辿った。
あまり授業に出られず、テストの問題を解けないと零した私に教科書の内容を彼女がフォローしてくれるようになって、どれくらい経っただろう。
栗色のボブカット。友人にこういってはなんだけれど、あまり印象に残らない、そんな顔だ。
じっと顔を見ていると、彼女はやさしいこえで「なに?」と言った。
「あ、うん。なんでもないの」
「何かついてた?」
不思議そうに小首をかしげながら彼女は自分の顔を右手で撫でる。困ったように眉毛をハの字にしながら。
「ううん、ほんとうになんでもない」
「そう?ちょっと休憩挟もうか?」
パイプ椅子から立ち上がった彼女からはい、と手渡されたのは緑茶のペットボトル。
ここにやって来るとき、苗字さんはいつも一緒に休憩するとき飲もうと言って飲み物を持ってきてくれる。お金を払おうとすると笑って首を横に振られるのが常だった。
そのたびに私のなかに不安のような、澱が募っていく。
居場所なんてどこにも無かった。それは弱い自分のせいだと分かっている。理不尽だと呟いても助けてといっても誰も手を伸ばしてはくれない。
何が悪かったのか、聞いても。クラスの頂点に君臨する彼女たちは教えてくれなかった。
石を投げられても靴を隠されても、それでも立ち続けることなんて出来なくて。
部屋に籠っているとお母さんは学校に行きなさいと青い顔で目を釣り上げて怒る。その顔がすごく怖かった。
どこに行っても息苦しくて、結局ここにいることしかできない。
そんな弱い私に、ある日保健室に飛び込んできた苗字さんは言ったのだ。
友達になりたい、話がしたいと。
それにとても救われた。こわかったけれど、うれしかった。今度こそ友達ができた。そう思った。
それからというもの、彼女はこうして放課後勉強を教えてくれたり、一緒にお昼ご飯を食べたりしてくれている。
それなのにこんなに不安になるのは、せっかく出来た友達に裏切られる気がしてしまって、怖くてたまらないからだ。
優しさに裏があるんじゃないかと勘繰って疑ってしまう。
私を見下してきた、クラスメイトの顔を思い出すと、恐怖で震える。
苗字さんは、ただ優しいだけなのだ。それが不安を誘う。
私たちは対等な友達なんかじゃない。それはわかる。彼女は与える側、私は与えられる側だ。その縁は薄い。
ひとと話せただけで最初は嬉しかったはずなのに、どんどん欲張りになっていく。仲良くなれば怖くなる。
「....苗字さんは、どうしてこんなに優しくしてくれるの」
「優しくはないけど‥石田さんとお話ししたいからかな」
「私性格悪いから、きっとすぐいやになるよ」
最近口にし始めた予防線をまた張ると苗字さんは困った顔をした。またやってしまった。いやになる。
逆の立場だったら私だってこんな人間はめんどくさくてたまらなくなるに違いない。溜息をつきたくもなるだろう。友達じゃなくなってしまうかも。もう明日は保健室に来てくれなくなるかも。
一緒にいてくれて嬉しいのに、もやもやしはじめると悪意のある言葉がとまらなくなる。
こわいんだ。どうしても。
「じゃあ、そうだな。理由ならあるよ。石田さんと仲良くする理由」
遠くを見るような目をした彼女は瞼を閉じた。
「わたしね、ヒーローになりたかったの。石田さんに頼られたら、優越感に浸れるかなって思った。だから、石田さんはわたしのこと、いくらでも利用していいの」
「利用‥」
「うん。石田さんと話したかったのも本当だけど、そんな気持ちがあったのも本当」
自嘲気味に、わたしのほうが大概性格悪いよ、と呟いた苗字さんは、今までの薄皮が一枚剥がれたようで少し近づけたような気がした。
ただ優しくしてくれる女の子ではない、与えるだけのひとじゃない。
今までが演技っぽかったわけでもないけど本当の彼女が見えたようで、逆に好感を持ってしまった私は、ちょっと変なのかもしれない。