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玄関から崩れるように自宅に滑り込んだ。
ぜえぜえと荒い息を吐き出す。肺のあたりが痛む。久しぶりに全力で走った。かちゃりと小さく音を立て鍵をかける。

夜も更け切ったころだった。
いつもより長い距離を走ってきて、疲れ切っていた。フローリングの床の上、そのまま寝そべればひんやりと頬が冷たくなる。ジャージが擦れかさかさと乾いた音を立てる。
ふくらはぎが筋肉痛になりそうな予感がしながらも、そのまま眠ってしまうことにした。だらりと弛緩する。
明日はいつもより早く起きて、シャワーを浴びよう。
額を汗がつたって滑り落ちて行く中、ゆっくり瞼を落とした。




いつも見るのは前の人生の夢だ。

小学生のわたしが田んぼのあぜ道の中を、苦しそうに走っている。
家の近所の公園まで走ってくると、ブランコの上に腰を乗せた。キイキイと軋んだ音がする。錆びたところから塗装が剥げ落ち、元は青かったであろう遊具は黒くくすんでいた。
どこにぶつけて怪我をしたのか、親指の爪がすこし割れて血が滲んでいる。

小学生当時のクラスは学級崩壊していて、その中でもリーダー格として不良少年たちを取りまとめていた関根という男子生徒にわたしは目をつけられていた。昔からわたしは気弱な子供だったのだ。
その時は全身にコーラをかけられ、体が冷たかった。親に余計な心配をかけたくなくて、学校での悩みなど家族の前で口には出せなかった。先生は関根を操作しようと必死になり、クラス内にいる弱者になど目もくれない。
ふと気づけば、学校を飛び出していた。居場所がなくて、泣きたいほど苦しくて。

ぶるり、と体を震わせた時、公園の入り口から犬が入ってきた。小型犬のポメラニアンだ。きゃんきゃんと可愛らしく鳴いて、わたしの方に一直線に向かってくる。

「ソラ、はしゃぐなよ。‥きみ、小学生?どうしたの。まだ学校にいるはずの時間だよね?それに‥」

犬の赤いリードの先。
背が高くて細い、優しそうな短髪の青年だった。彼のあだ名はシャツ。近所に住んでいた大学生だった。
面識がない男性に、わたしは警戒心をあらわにする。
彼はずぶ濡れになっていた小学生に眉を顰めると、何もしないからうちにおいで、とやさしく声をかけてくれた。
シャツは教育学部の学生で、寂しそうな子供を放っておくことなど出来なかったらしい。

それからというもの、彼はわたしの悩みを正直に相談できる青年になった。ときには慰め、ときには叱ってくれる。そしてときに、わたしが彼を慰めたりもした。
そのうち年齢差も、性差も超えた大切な親友になった。憧れでもあった。優しくて暖かくて、いつも手を引いて歩いてくれた。目標そのもの。人生をまるごと掬い上げてくれた人。彼に出会わなかった人生を考えるとぞっとする。
抱きしめられるとあたたかくて、安心できるひとだった。悩み相談にのってわたしがそれに答えると、大人になったんだなあと、寂しそうな色を目の中に浮かべていたひと。


そして彼は、わたしのたった一人の好きな人だった。


今でも思い出すたびに会いたくて、苦しい。わたしの前世の影。

不器用なくせに頑張ったねと笑ってほしい。わたしも笑い返して、会いたかった、何してた?と聞きたい。
もう、夢の中でしか会えない。今でもわたしに力をくれる人。今でも目標にしているひと。
あの人生がどれだけくだらなくても、ちっぽけでも、少なくとも今の人生より良かったと思ってしまうことがある。あなたは許してくれるだろうか。

大切な人がわたしのことを忘れない世界。それだけでいい。それ以上はいらないから。

あそこにはとてもとても大切なひとがいた。

会いたい。会いたい。もう会えない。どれだけ願っても、願っても、



体の痛みと寒さで目が覚めた。見飽きた部屋のカーテン越しには、のぼる朝日が見えた。