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美術室に入ろうとしたところでねえ、と背中に声をかけられる。
その美しいアルトボイスには聞き覚えがあり、無意識に体が強張った。

「苗字さんて、美術部だったんだね。柳から聞いたんだ。
今どんな絵を描いてるのか気になって、思わず見に来てしまったよ」

振り返ると、にこにこと機嫌良さそうに笑うのは案の定幸村精市だった。廊下に一人立っているだけなのに絵になる、そんなひと。
わたしのことを彼が覚えていたことにも驚きだが、こうして近寄られることにも驚いている。わたしは印象に残らない自覚がある。滅多に名前も覚えてもらえないからだ。

彼の手に辛子色のジャージを持っているところを見るに、授業終わりで部活前に立ち寄ったといったところだろう。

正直、幸村に近寄られるのはあまり気分のいいものではなかった。彼らのことを勝手に大切に思ったり憧れることと、彼らに近づかれるのは別問題だ。
何がそんなに彼の興味を引いたのか。幸村は絵が上手いと褒めてくれたが、前の人生から総合してもいまだに特出して絵が上手くなっているとはとても思えない。
溜息をついて美術室の扉を開けると、篭った空気が流れ出る。どうぞ、と一言入室を促すと、失礼しますと礼儀正しく彼は一礼した。
まだ美術室には誰も来ていなかった。

「きみの絵は?」
「まだ殆ど出来上がってないよ」

部室の後ろの端の、目立たない位置。
イーゼルに立てかけられたキャンバスの上にはまだ申し訳程度に色が載っているレベルだった。
他の絵には目もくれずまっすぐわたしの絵に向かっていった幸村は、不躾なほどじろじろとキャンバスの上を見ると、隣のテーブルに置いてある写真に気がついた。

「これが完成イメージ?」
「うん、一応。色々変えるつもりだけど」

茅ヶ崎で撮ってきたバス停の写真を手に取りキャンバスを見比べて、彼は完成がすごく楽しみだと口にした。

「植物模写と油絵じゃイメージにすごく違いがあると思うよ。幸村くんは模写を褒めてくれたと思うけど」
「いや、すごく繊細だなと思ったんだ。書き方とかさ。だから、あれは苗字さんの作風みたいなものなんだと思う。上手いだけじゃなくて、俺はそれを好きだなと思った」

こんな風に褒められたことはない。
これ以上褒められるのは辛くなると思い、きつく目を閉じる。

なんせ、彼らも例外なくわたしを忘れてしまうからだ。彼らに何かをしてもらっても、わたしが一方的に思い出を大切にするだけ。
それは時に悲しくて、つらい思い出に変わってしまう。興味本位で一緒にいたらいけないひとたちなのだと、もうよくわかっている。

「ねえ、たまに見にきていい?」
「…………うん」
「はは、乗り気じゃなさそう。勝手に見にくるね」

あなたが忘れなければ、たまに見にきてね。そんな言葉を喉の奥に飲み込んだ。幸村は綺麗な顔で笑っていた。
それじゃ、部活に行くからと幸村は手を振って美術室から出て行く。入れ違いに入ってきたのは、尾川先輩ともう一人、東海林先輩だ。

「ねね、今の!幸村精市でしょ!」
「背は高くないけどかっこいいよね」
「かっこいいっていうか、綺麗っていうか。すごい、ニキビとか出来たことなさそう」
「幸村くんは何の用事でここにいたの?テニス部だよね」

美術作品が好きみたいですよ、と嘘ではない情報をいうと、美術館とか似合いそうだよねえ〜という会話で盛り上がる2人の先輩。
それに紛れてそうですよね、とうすく笑った。