28
土曜日にも関わらず、美術室の中でうろうろしていた人影を見逃さなかった。テニスコートから見えた時は失礼ながら亡霊のようにも見えて、一瞬ぎょっとしてしまった。
そっと、静謐で油のにおいのこもった部屋に体を滑りこませる。
当初の予定というか、思ったよりは美術室には寄ることが出来ていない。自分が忙しいことは勿論、彼女の姿もあまり見ていないような気がした。
本当はもっと頻繁に行って、あの油絵が完成する過程をじっくりと見ていたいのに。
休日の美術室には苗字が一人いるだけだった。木の丸椅子に座りながら、すっと背筋を伸ばして存在感のない雰囲気のまま、キャンバスに細筆を乗せている。
彼女に対して、地味というよりは触れたらいなくなりそうな感覚があると遠くから姿をみかけるたびに思うようになっていた。輪郭線がひどく薄く見えたのだ。どうにも説明のしようがないほど、彼女は希薄だった。
ずいぶん集中しているなと感心しながら、彼女の目の前に鎮座する絵が8割型完成していることに気が付いた。
しばらく見ていない間に、作業が進んでしまっていたらしい。
夕方の重い雰囲気の絵だった。夕暮れの日の差し込むバス停の背後には、海が小さな飛沫をあげている。油絵であっても、最初に見た彼女の鉛筆画の印象とあまり変わらない。丁寧で繊細で、すこし寂しさも感られる。そんな絵だ。
そんなとき、彼女が背後にいる俺に話しかけてくる。栗色の髪を微動だにさせないままに。
「いつの間にきてたの、幸村くん」
いつ気付かれたのだろうと苦笑しながら、返事をする。
「さっきだよ。君こそ土曜日なのに珍しいな」
「最近色々あって、進捗が遅れてたから‥部活は?」
「俺はちょっとした休憩もしたらいけないのかい?」
「そんな嫌味のつもりで言ったわけじゃないよ」
「わかってる。冗談」
肩を竦めてその絵にさらに近寄った。まだ乾かない、乗せられたばかりの色が艶々としている。黒い、深い色を薄めに重ねているようだ。油のにおいがむっと濃くなった。
その折に苗字と今日初めて目が合い、にっこりと微笑む。
「表面がデコボコしてるのは、わざと?」
「うん。マチエールにして、動きっていうか、そういうのが欲しいと思って」
「へえ、面白いね」
「そう?よくやりすぎって言われるよ」
どこか寂しそうに首を振る苗字。
そういう表情にも何だか興味をそそられてるんだけどなあ、そんなことは言わないままに絵をじっと見直した。
美術室の中には他にも転々とキャンバスがイーゼルに立てかけられている。一瞬見てうまいな、と思う絵もある。
その中でもこれが一際気になるのは、何故なんだろう。
ただ単純にうまいというより、うまいのはうまいのだが、苗字の感覚的なところに興味を引かれている気がした。
絵は喋らずとも、描き手本人の思考をそのまま示してくれることがある。中世の絵画のように、この油絵の中にひっそりメッセージがあるわけでもないだろうに、なにかを探してしまう。
彼女の雰囲気をうつしたような絵。
「‥あの、‥今度先輩の絵とかも展示されるんだけど、よかったら展示会見にくる?幸村くんさえ良ければ」
「いいのかい?」
「うん。生涯学習センターで、地区の中学校の展示会するの。無料だし。幸村くん、絵、好きでしょう」
「ありがとう。是非行かせてもらうよ」
「夏休みだから‥大会と被ってたら、無理しなくていいからね」
「あとで日程表頂戴。確認しておくからさ」
「うん。わかった」
こっくりと神妙に頷いた彼女が何だか可愛く見えて、それに思わず微笑んだ。
思えば今日は嫌がられていない。少し、懐いてでもくれたのだろうか。そんな小動物に対してのような感想を抱いてしまった。