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ルートを変更し、源氏山公園へと向かう。
今日は早朝のランニングにした。今はまだ真っ暗な景色の中、住宅の脇を駆け上がる。鎌倉は案外坂が多い街で、実のところランニングには不向きだ。

細い住宅街の道を走って行き、巽神社の脇を通過する。八坂神社のあたりまで走って限界を迎え、吐きそうになる呼吸を落ち着かせた。
どうしようもなく走りたい気分だった。
少し休憩を取り、小走りで英勝寺のほうへ向かった。右隣には横須賀線の線路、左には住宅と緑がある。今の時間帯はコオロギのような虫の鳴き声しかせず、ひどく静かだった。
そのまま真っ直ぐ進むと、カーブミラーが二つ見えて、左に曲がる。その次の別れ道も左に曲がる。景清土牢のあたりは緑の気配がぐっと濃くなる。紫陽花のシーズンは、人が少ない中紫陽花を見ることも出来るいい場所だった。

坂道を突き進むと、岩肌が見えてくる。化粧坂だ。
その昔はとても栄えた通りだったそうなのだが、今は見る影もない。水が染み出す黒い岩肌を、滑らないよう慎重に這うように登る。
夏の終わり、しっとりと湿ったそこはひどく冷たかった。白く靄がかかる空の上で、黒い影を落としながらとんびが鳴いている。

シャツと一度だけ鎌倉に来たことがあり、そのときに行ったのが源氏山公園だった。買ってきた弁当をお昼時に広げると、とんびが間近に来て食材を奪っていった。あんなにとんびを近くで見たのは生まれて初めてだった。怒りよりも驚きや興奮のほうが大きく、シャツと騒ぎあったことを覚えている。あのときの景色が一瞬頭の中をよぎった。

頂上近くにたどり着くとまた道が分かれ、左へ行くと開けた空間がある。中央にはどっしりと構える源氏の石像があり、それを囲うように緑の芝生とベンチがある。記憶と変わらずその位置にあった。
明るくなってきた景色はあまりよくなく、朝靄が濃かった。シャツと座ったベンチに腰掛けて、シャツが座っていた位置に座る。

ねえ、シャツ。聞こえないと思うけど。
わたしに何ができるかな。何を目標に生きていけばいいのかな。
わたしはまだ、あなたになりたい。

荒い息を落ち着かせようと深呼吸すると、涙がこぼれた。苦しくて辛くて、色んな人に忘れられて。それでも生きようと足掻く自分がひどく見苦しい気がして。ふとした瞬間に前世の闇に足元を巣食われて、思考が内向きに暗くなる。

願いを持っていいのなら、わたしはまだヒーローに憧れていた。
誰かを助けられる人間になること。美織が感謝してくれたように、わたしも誰かに感謝したかったし感謝されたかった。そうして自分が認められたかった。生きていいと言われたかった。
まだわたしの目には薄く見える、この輪郭線をよりはっきり出来たなら。

そう、これは大きくて愚かな願いだ。
でも、わたししか知らないことを生かせる願いでもある。漫画を知っているわたししかできない。
今ならまだ間に合う。
わたしは幸村精市と会話をすることができる。同じ学校に通っていて、彼とは同級生だ。出来るのか、わたしに。していいのかな、そんなこと。
余計なことだ。変なことはしないほうがいいと、頭の片隅で必死にわたしが囁く。どうせ忘れられて悲しい想いをまたすることになるのだと、それに未来を変えるような大層なことをお前がしていいわけがないだろうと。

空を見上げると、やはりそこにはとんびがいて、ゆっくり回旋しながら鳴いていた。