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屋上に続く階段はどこか冷たい温度だった。教室の温度と何が違うのか、よくわからない。同じ学校の中なのに。喧騒が少し遠ざかる。
ただ、四階建てのこの建物の、教室が並ぶ廊下から足を一歩踏み入れるだけで、そこはひどく冷たく違う世界のように感じる。前の人生でも中学生のときには屋上階段で似たようなことを思っていたことを、ぼんやりと思い出した。そして山頂のように空気が薄いような気もして、なんだか息苦しい。でもきっと、大丈夫。いっきに駆け上がる。

重い鉄のドアをぐ、と力を入れて押すと、青空と銀色のフェンスが目に痛かった。

形骸化されているらしい園芸部の代わりに幸村精市が屋上で植物を育てているというのは有名な話だった。しかし自分の管理しているところを踏み荒らされることを嫌うというのも有名な話で、屋上に寄り付く人間がいないとか、なんとか。だから幸村精市は色んな意味で有名人なのだ。屋上は学生の共有スペースなのに、彼が独占しているというのもおかしな話なのだけど。

「‥‥‥」

後ろ手に扉を閉めた私を、幸村が目を見開いて見た。中腰で、手には青い如雨露を持っている。しゃわしゃわと青い葉にぶつかって雫がはじけて落ちる。
その瞳の中に、覚えがありすぎるほどの葛藤があった。ああ、あなたも、なのか。
先日石田美織の中に見たのととても似ているもの。ただ、多分、少しだけ覚えてくれているんだろうというもの。

「ご‥めん‥あの‥さ、」

そんなに申し訳無さそうな顔をしなくても、いいのに。もういい。だって、何度傷付いてもきっと慣れなければいけない痛みだから。みんな私を忘れてしまうから、あなただけじゃないんだよと、言えたらどんなにいいだろう。

「きみ‥名前‥なんだっけ。何度も会ってる‥よね。本当に‥ごめん」
「苗字名前と、いいます」
「あ、そうだ‥苗字さん‥」

ほとんど中身が空になった如雨露が幸村の手から滑り落ちて、コンクリートにぶつかってからりと乾いた音を立てた。勇気を出して一歩踏み出して、幸村のそばに突き進む。
そしてその少し濡れた彼の手のひらを握る。自分の手が震えているのがわかった。自分が今からしようとしていることが、どれくらい実現できるのかわからなくて。未来に不安しかない。

でも、美織が少しだけ明るくなってくれたように。私に何かできるなら、何かを変える力があるのなら。彼の未来を変えたいと思うのだ。
何度かやった夏の無人島に閉じ込められるゲームの中で、幸村は病になったことをプラスに捉えようとしていた。だから、あれは彼の貴重な経験にはなったのかもしれない。でも、じゃあ苦しかったのが良かったのか。死ぬような思いをするのが分かっていて、回避しようとするのはいけないことなのか。そんなことないと思う。
手術で治ったから、あの病気は再発しないのか?もし再発率が少しでもあったら?プロになろうと思ったら、それは障害になるのでは?少なくともあの病と似ているギラン・バレー症候群は再発の危険が伴う病気だ。だから、叶うのなら。

「幸村精市、くん。わたしと、友達になってほしい」
「友達‥俺と、きみが?」
「そう、友達に」

数秒間をおいて、幸村は「友達って口約束でなるものなのかな?」とすこしだけおかしそうに微笑んだ。