04
ぺとりと何かが顔の上に降ってきた。
それは一瞬虫のような感触がして、焦りながら払うように拭う。
しかしそれはピンク色の、今は陽の光でオレンジ色に見える花びらだった。
目の前にある、もうすっかり葉桜になっている樹を少し驚いて見つめた。まだどこかに花が残っていたらしい。
最後の一枚だったかもしれない花びらを手のひらの上にそっと乗せると、今日はいい日だったような気分になる。単純な思考だと苦笑した。そんな夕暮れ時だ。

首にかけた青いマフラータオルで頬の汗を拭きながら歩いていると、水場近くの校舎の日陰に座り込んでいる女子生徒に気がついた。
彼女は立てた膝の上に暖かそうなブランケットをのせ、スケッチブックを開いている。

地味な雰囲気のその女生徒は水場とスケッチブックを交互に見ながら、熱心に何かを紙の上に描き込んでいた。
水道に用事があるのに、顔を洗いたいだけなのになんだか行きづらいなと内心不満を持つと、近づいているこちらに気づいたようでその生徒とパッチリと目が合った。

自慢ではないがだいたいの女子は、俺を見ると目を見開いたり好感をもった表情をしてくれる。最近はそれが当たり前だとさえどこかで思っていたし、自惚れてさえいた。
しかしその生徒は、さっと影のようなものを瞳の中に浮かべたように見え、ちょっとした違和感を持った。
その表情の変化はほんの些細なもので、気付かない人の方が多いように思えるものだ。
おそらく、それに気が付いたのは偶然。
女生徒は手を止めて俯いてしまい、早くこちらに用事を済ませてほしいような仕草にも見える。彼女の茶色の髪にうっすらと夕陽があたりオレンジ色に染まる。

敢えて彼女に話しかけたのは、きっと気まぐれに過ぎなかった。

「ねえ」
「…………ん?」

自分のことを呼ばれたのだと数秒遅れて気づいた彼女は、顔を上げてこちらを見た。ぱちりと再度目が合う。白目が透き通るように青いのが妙に印象的だった。俺から長く伸びた影が、木の陰に吸収される。
女生徒の目の前で膝をついて屈み込み、極力ふんわり優しく見えるように微笑んでみせたつもりだったのだが、彼女は困惑した表情をしている。日陰は想像以上に涼しかった。あたたかな春の陽気だが、彼女の膝上にブランケットがあるのも頷ける。と、桜色のブランケットを見て思う。

「何を描いてるの?」

思わず優しく聞こえるように、ちいさな子供に声をかけるようにそう聞いていた。彼女は慌ててスケッチブックを強く握りしめている。その様子はなんだか弱い生き物が自分を守るような、どこか動物的な仕草だった。スケッチブックが女生徒を守る盾に見えた。

「え?え?………草かな?」
「どうして疑問形なの?」

くすくすと思わず笑うとやっと、彼女は依然困ったようなものではあったものの笑みを浮かべてくれた。

「見せてくれないの?」

強請るように可愛らしく首を傾げてみせたけれど、やはり自分に見惚れたりはしないようだ。むしろ警戒心を強められたのか、ますますスケッチブックを握る強さが増したように見え、ぎゅうっという音が聞こえてきそうだった。
彼女の平凡な唇が薄く開いて、音を紡ぐ。

「え、え、ー………それは、いやかな」
「書いてるのが途中だから?」
「途中じゃなくても」
「なんで?」

なんとなく続けて疑問を投げかけると、ううん、と彼女は迷う。

「自信がないから、かな」
「ふうん?俺のことが嫌いだからじゃないの?」

さっくりと思ったことを口に出すと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でもするので、益々面白くなってしまった。
久々に異性と、こんなふうに普通に会話が出来た気がした。

「幸村くんって、凄いことをさらっと聞くね。初対面なのにすごいな」

感心したようにまじまじとこちらを見つめてくるので、俺もびっくりしてしまう。

「俺をしってるの?」
「まあ、ちょっと。幸村くん、有名人だからさ」

女生徒はバツが悪そうに更に縮こまったので、いいよと俺は苦笑した。
自分の顔がいい部類であることは自覚している。
その瞬間、チャイムが鳴る。部活動終了の合図だ。

「わたし、戻らないと。」
「え!」
「邪魔してごめんね、幸村くん。部活頑張って!」

慌てて彼女が走り去った後、彼女の名前も学年も知らず話していたことに気がついた。