05
体から仄かに甘い匂いがする。
特別嗅がなくとも、シャツから香るのはバターの香りだった。
エプロンをつけていても家庭科の調理実習がお菓子づくりでは、制服に匂いも染み付くというものだ。

クラスの中でも親しくしているグループの女子のひとりである佳奈ちゃんは、カップケーキのラッピングを抱えながら、恥ずかしそうに、頬をかわいらしく染めて柳くんにあげようかな、と呟いていて、この子達は青春の只中にいるのだと思ったりする。
勿論、彼女たちはみなれっきとした中学生なのだから、好きな男の子に心が躍るのは当然といえる。
わたしの中学生の頃を思い出そうとしたのだが、無駄なことなのでやめにすることにした。

わたしは誰にあげよう、と手元に同じラッピングのものを残しながらふと考えた。自分で食べてもよかったのだが、それもなんだか味気ない。
隣の席の良く食べる山本くんにあげても良かったものの、そんなに仲良くもない男子に乞われたわけでもないのにカップケーキをあげるのはどうなのかと、タイミングを逃した。そんな思考は自意識過剰であることをよく知っているのに、ばかなことをした。
佳奈ちゃんにあげようかとも考えた。しかし女子数人のグループで仲良くしているのに彼女だけにあげると後々角が立ちそうで言いだしにくく、これもまたタイミングを逃した。
おとなしいグループでも女子は女子。
新年度早々に出来たグループは瓦解する可能性が高いため、みな相手の様子は探り探りなのだ。
というのも言い訳で、目立たないように特別な行動を起こさないようにと気を配るのは、自衛本能のようなもので、全部自分のためだった。

ずっとそう。


そんなわけで優柔不断なわたしの鞄の中には、未だにカップケーキがひとつ眠っている。



展示会に出す油絵で何を描くかまだ決めかねていたため、今日の放課後もスケッチしに外に行くことにした。
一度も描いたことがない空を描いてもいい気もしたが、やはりモチーフとしては植物や建築物がすきなので迷っている。

校舎の周りをスケッチブック片手にぐるぐるとしていると、真横には保健室の窓があった。たまたまふと覗き見ると、ひとりの女子生徒と目が合う。相手は緊張気味にすぐに目を逸らし、ベッドの上で項垂れたのだが、わたしは彼女のすがたに見覚えがあり、ピンときた。

急いで踵を返し、まっすぐに美術室に向かう。
絵を描いていた先輩に今日は帰りますと一言告げると、適当にわかったー、と気の抜ける返事があった。

彼女はまだいるだろうか。帰らないでいてほしい。わたしの決意が鈍る前に。

「あの、」

息を少し切らせて入った保健室は養護教諭もたまたま席を外していたようで、彼女ひとりしかいなかった。

確か隣のクラスの生徒で、黒髪が艶やかで美しい。

入学式で見た時から綺麗な子だと評判だった。ぽってりした赤い唇や自然に整った眉。一見勝気にも見えそうな容姿で、それでも仕草から本当は注目されたりすることが苦手なのではないかと思っていた。派手そうな生徒に入学早々話しかけられ、困ったように瞳が揺らぐのを見たことがある。
すぐに何人か男の子に告白され、女子からも目をつけられた彼女は、保健室登校になってしまったと噂で聞いていた。ただそれ以外の悪意ある噂は正直信用ならないと思っていた。

彼女と話してみたかったのだ。ただそれだけ。でも根が小心者のわたしには勇気がいる。

心のうちに何度もしまい込んだお守りのような光景を握りしめる。思った時にやらなければ、こういうことは後々後悔するのだと知っている。