始まりの合図

「おい。お前、名は。」

いつも通りの日常のはずだった。昼間はカフェでバイト。夜はMANKAIカンパニーで住み込みの掃除のバイト。ちゃんとした職についていない分、生活に困らない程度にバイトで繋いでいく毎日に、新しい風が入った。

急にだ。気配すらしなかった。舞台の床を掃除している最中に頭上から降り注ぐ少し低い声。見上げれば人相の悪い眼鏡の男の人が私を見下ろしていた。

『誰ですか…?』

「ちっ…。」

『ひっ…、』

全然知らない人に舌打ちされた。思わず掃除道具を持って離れる。身なりを見るとどう見てもヤクザにしか見えなかった。一体なんの目的でこの劇場に足を運んだんだ。

「何故掃除をしている。」

『バイト、だから…です。』

「意味ねぇことしてんじゃねぇ。」

『?…どうしてです?』

「ここは時期に潰す。」

ガッと鈍器で殴られたような感覚に陥った。潰す?潰れるではなくて?どうしてこの人がそんなことを言うのかわからなかった。わけがわからないという表情で察したのか、男の人はため息をついた。

「あいつ何も話してねぇのか…。」

『あ、の…何の話を…、』

「言った通りだ。この劇場は時期に潰す。近いうちに潰される劇場の掃除なんざしても意味ねぇだろ。別の職場を探した方が賢明だと思うがな。」

ここがなくなってしまうの?嫌、嫌だ。お願い、ここすら失くしてしまったら私は−−−−。

『…め、』

「あ?」

『だめ、潰さないで…っ、』

もう使われなくなった劇場を守ることは無意味なのかもしれない。それでも此処には大切な思い出が詰まっているの。私が幼い頃に持っていた大切な気持ちごと全部詰まっているの。だからお願い、奪わないで。

『人、いない、けど…思い出が…父が残した思い出がここに詰まってるの…!』

「んなこと俺には関係ねぇよ。俺にいくら借金してると思ってんだ。」

『…貴方に借金…してるの…?』

「ああ、借金を返す目処すらたってないこの劇場を残す必要はない。」

『そんなこと、ない…!!』

どうして私、こんなに必死になってるの?全て捨てた私にこの劇場を守る資格なんてない。そんなことわかってる。それでも…っ、

『私が借金を返す!』

このMANKAIカンパニーを守りたいの。

「どうやって?」

『へっ?』

「どうやって1000万以上の借金を返すんだ?」

『…どうにかして…。』

「話にならねぇな。」

そう言って立ち去ろうとする男の人の腕をガシッと掴んだ。その行動に自分自身でも驚いた。最後の公演から全てが空っぽになってしまったと、そう思っていた。こんな私でもまだ守りたいものがあったんだ。

『あ、えっと、』

でもこの後のことを何も考えてなかった。眼鏡の男の人の機嫌が悪くなっていくのを感じた。何とかしなきゃ、私が何とか…!

『なんでも…なんでもするから!お願いだからこの劇場は…きゃっ!』

何が起こったのか全く理解出来なかった。しかし二つだけ分かることがある。それは私が舞台の床に押し付けられているということと、眼鏡の男の人がとても怒っているということ。

「ヤクザ相手になんでもするなんて言うもんじゃねぇぞ餓鬼。」

『っ、』

心臓がドクドクと波打っているのがわかる。ピリピリとした空気が肌を指して痛い。

「身体で払えって言われたら、てめぇは身体を差し出すのか?」

『っ、あげるよ!!!手でも足でも、目でも鼻でも!!!ここを守れるなら!!』

「!!…おま、そういうことじゃ…はぁ。」

『っじゃあ、肝臓とか肺とか!あと、す、膵臓と腸?』

「もういい。」

はぁ、と二度目のため息。眼鏡の男の人は私の上から退き、私の腕をついでに掴んで私を起き上がらせた。

「身体で払うと言ったな。」

『は、はい!』

「なんでもすると言ったな。」

『私にできることであれば…。』

「ならお前は今日から俺の物だ。」

私を見下ろしたその瞳は、本気だった。しかしその瞳は何処か哀しげで、寂しさを含んでいた。

「お前の名は。」

『立花…立花かえでです。』

「…………そうか。俺は古市左京だ。」

『古市さん…?』

「左京でいい。」

『左京さん、よろしくお願いします。』

ひとまず安心、ということで良いのだろうか。こんな私でも守れるものがあるのなら今度は守りたい。この舞台を守る抜くために、私はこの劇団と共にあろうと誓った。