左馬刻と一郎と山田家長女


とある目的の為に足を踏み入れたヨコハマディビジョンは予想以上に治安が悪い。
道を尋ねようと周りを見渡していたら、逆に声を掛けられた。しかし声を掛けた男2人の表情を見て、明らかに善意によるものではないと思った。逃げようとしたのだけど彼らは予想以上に足が速く、最終的に人通りのない路地裏まで追い詰められてしまう始末。
いち兄から「絶対ヨコハマには行くなよ」と言われていたけど、まさかこんな事になるなんて。

「あの、私行かなきゃいけない所があるので退いてくれませんか」
「そんな怯えなくてもとって食ったりしないから安心していいって」
「今から行く所すっごく楽しくてお金も稼げちゃうから一石二鳥だよ? 行かなきゃ損だよ損」

女性の方が立場が上、といってもそれは表だけで見えないところでは女性を狙った犯罪は少なくない。その事はいち兄からも聞いていた。
そんな兄の言いつけを破ってしまった手前、あまり事を大きくさせたくない。どうやってこの状況を打破しようか考えあぐねいていた、その時だった。

「おい、邪魔なんだよクソダボ共」

突然ドスの効いた声が聞こえてきたので目を向けると、タバコを咥えたお兄さんが眉間に深く皺を寄せ、不機嫌さを露わにさせていた。

「ああ? んだてめ…っ?! ってお、お前…!」
「お前何ビビってんだ」

たった今まで威勢の良かった男はタバコのお兄さんの顔を見た途端怯え出した。しかしもう1人はそんな仲間の様子を見て不思議そうに首を傾げている。

「ばっか! アイツはこのディビジョンを仕切ってるヤクザの、」
「てめぇらの耳はイカれてんのか? 邪魔だっつてんだろがさっさとどけ」
「はあ? お前何様だよ? 取り込み中なの見てわかん、」

その瞬間、男は宙を舞いながら近くにあったゴミ捨て場へと落下した。完全に伸びている仲間の姿を見てもう一人の男は「ひぃいいっ!」と悲痛な叫び声を上げながら一目散に逃げ去ってしまった。
そしてお兄さんは力なく伸びている男の元へ行き、短くなったタバコを捨てて靴で擦りつけた。しかし気絶しているのか男はお兄さんの成されるがままになっていた。

「あ、あの…」
「あ?」

頑張って声を掛けると、反応してくれたお兄さんの声色は先程男達と対峙していた時より少し優しくなってる気がした。顔は怖いけど。

「助けて頂いてありがとうございました」
「…ここら辺は今みてぇなクソ野郎がゴロついてる。次からは女ひとりで来るんじゃねぇぞ」
「はっ、はい! ありがとうございます」

もう一度お礼を言い、頭を下げると「チッ」と舌打ちされてしまった。わ、私何か気に触るような事してたのかな?

「…ついでだから送ってやる。お前何処に住んでんだ」
「えっ? えっと、お心遣いは有り難いんですけど行くところがあって、まだ帰れないんです」
「あ? 用事あんならまた今度に、」
「今日じゃないとダメなんです! 実は行きたい所があるんですけど迷ってしまって…」

道案内して欲しい、と頼みたかったけれど助けて貰ったのに図々しいかもしれない。いや、実際そうだ。どうしようかと口を噤んでしまっているとお兄さんは「ハァ…」と大きくため息をついた。

「案内してやっからさっさと場所言え」
「! 良いんですか?!」

「自分で今日じゃないといけないって言ったんだろが。 いいから早く言え」

このお兄さん良い人だ!顔はやっぱり怖いけど!

「えっと、ここなんですけど…」

その場所の名前を見せると、お兄さんは露骨に嫌そうに顔を歪めた。


◇◇◇


お兄さんに案内して貰った場所は意外にも駅のすぐ近くにあった。

「アニメイトってこんなに近くにあったんだ…」

自分の方向音痴さを思い知ってしまい気持ちが沈んでしまったけど、まずは案内してくれたお兄さんに謝らないと。

「…あの、すみません。私方向音痴だったみたいで…本当すみません」
「いいからさっさと行くぞ」
「えっそんな!大丈夫です、1人で行きます」
「方向音痴なら帰り迷うかもしれねぇだろ。そうなったら元も子もねぇだろが」

そう言い先陣を切るお兄さんの優しさが心に染み渡り、「ありがとうございますっ!」と大きくお礼を言い後をついて行く。

「お前、アニメとか…何だ…ラノベ?とか好きなのかよ」
「私は全然わかんないんですけど、兄が大好きなんです。あ、弟も兄の影響で見てますね」
「ふーん…お前兄弟いんのか」
「はいっ! あと1人弟がいるんですけど、末の弟はすっごく頭が良くて、テストで満点取ることもあるんですよ!」
「へぇ、凄ぇな」
「そうなんです、本当に凄い子なんです。次男の方もサッカーが得意で、全国大会に優勝した事もあるんです! 今はもうやめてしまったんですけど、時々近所の子達に教えてあげたりしてて…あっすみません、長々と話してしまって…」
「いや…自慢の弟達なんだな」
「っ! はいっ! 兄もとっても優しくて私達の為に頑張って働いてくれてて…本当、3人とも自慢の家族なんです」

口元を少し緩めたお兄さんに私も思わず笑顔になり、気づけば元気いっぱいに答えていた。血の繋がりは無いけれど、本当の家族として接してくれる3人には感謝の気持ちでいっぱいになる。
でもこんなに家族の話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「んで、目的のものは何処にあるんだよ」
「えっと…あっ!もしかして…」

戸棚の前に行き、スマホに写し出されている画像と見比べる。箱のデザインが全く一緒で、見つけれた事に感動しながらひとつを手に取った。今日しか販売しないものらしく、丁度依頼が入っていた為泣く泣く断念していたいち兄の背中は悲壮感に満ちていて此方も沈んだ気持ちになった。
いつも自分を犠牲にして私達を養ってくれている兄の為意を決して来たのだけど無事に手に入って良かった。

「ありました! これヨコハマ限定らしくて、兄がすっごく欲しがってたんです!」
「おお、良かったじゃねぇか」
「はい! すぐに買ってきます!」

いち兄の喜ぶ表情を思い浮かべながらレジへと早足で歩いていく。あ、でも私がヨコハマに行ったってバレたら怒られちゃう。友達から貰ったっていう事にしたらバレないかな…?


◇◇◇


「付き合ってもらって本当にありがとうございました」
「気にすんな。どうせする事無かったしな」

最初は怖いお兄さんと思ったけど、助けてくれた上に道案内、更には買い物にも付き合ってくれて駅まで送ってくれて凄く良い人…いや、すっっっごく優しくて良い人だ。

「あの、良かったらお礼させて下さい」
「あ? んなもんいらねぇよ。いいからさっさと帰って兄貴にそれ渡してやれや」

そう言い残し踵を返そうとするお兄さん。ここまでしてもらったのに、何もせずこのまま帰してしまってはダメだ。思わずシャツの裾を掴むと「んだよ、まだ何かあんのか」と睨まれてしまった。

「でっでもここまでしてもらったのに、何も返さないなんて申し訳ないです。私に出来る事なら何でもしますから」
「……ハァ、何でもするとか簡単に言うんじゃねぇよ」

呆れた様に呟かれた言葉に呆然としていると、「ケータイ貸せや」と手を出されたのですぐにバッグから取り出してお兄さんに渡した。すると早い手つきで操作し出したかと思えばすぐにスマホを返され、画面を見てみると“碧棺左馬刻”という名前で電話番号が登録されていた。

「あの、これって、」
「こっちから連絡してやっから今日はもう帰れ」
「! ありがとう、ございます」

お兄さん、碧棺左馬刻さんって言うんだ。名前を知れた事が嬉しいのか自分の心臓がドキドキと音を立てている。…でもお兄さんの名前、何処かで聞いた様な…。いやそれよりお兄さんが名前を教えてくれたのだから私も名乗らないと。

「あの、私、」
「名前!」

後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。まさかと思い振り返ると、そこには喜ばせたいと思っていたいち兄が肩で息をし立っていた。苦しそうで、でも今まで見たことのない怒気を含んだ表情をするいち兄はどんどん此方へ近づいてきた。
言いつけを破ったから怒っていると思って申し訳ない気持ちで顔を俯かせたが、いち兄はそんな私を片手で自分の後ろへと誘導させた。

「い、いち兄?」
「こんなとこで何してんだよ、クソ偽善者の山田一郎くんよぉ?」
「それはこっちの台詞だ…てめぇこそ俺の妹と何してんだ」

2人のやりとりを聞いて、ようやく名前を何処で聞いたのか思い出した。
碧棺左馬刻、いち兄と同じチームだった人で、いち兄が最も嫌っている人の名前だ。

「いち兄、何でここに?」
「仕事の依頼主から急遽ヨコハマに来るように言われてな。丁度帰るところだったんだが…まさか名前がいるなんてな」
「ションベン臭ェ弟の話ばっか聞いてたが、妹もいるなんてな」

すると碧棺さんはいち兄の後ろにいる私へと視線を移す。するとそれに気づいたいち兄は碧棺さんから私を隠すかの様に更に背後へと寄せた。

「にしても芋顔のてめぇとは全然似てねぇなぁ?」
「黙れ。左馬刻、てめぇまさか妹に手を出したんじゃねぇだろうな」
「待っていち兄! 碧棺さんは私を助けてくれて、」
「そう言えって脅されたのか? 大丈夫、俺が守ってやっから」
「ち、違うよいち兄、そうじゃないの」

私を安心させるかの様に頭に手を乗せてくれたいち兄はその手を離すと、前を向いたまま此方を見てくれない。違う、違うんだよいち兄。本当に碧棺さんは悪くないの、私を守ってくれたんだよ。

「一郎よぉ……さんをつけろっていつも言ってんだろぉがこのトリ頭野郎! お前のその出来損ないの脳味噌に刻んでやんよぉ!」
「はっ!てめぇの言うことなんか死んでも聞かねぇよ! 俺の家族に手出した事後悔させてやる!」

メンチの切り合いだけではおさまらず、ついにはヒプノシスマイクを取り出してしまった。こんな場所で起動させたら周りの人達にも影響してしまうかもしれない。
言葉じゃ通じないのなら、といち兄に精一杯抱き着くと「っ! お、お前何してんだ?!」と声が裏返っていた。心なしか頬が少し赤くなってる様な…って今はそんな事気にしてる場合じゃない!

「碧棺さんは私が他の男の人達から絡まれていたところを助けてくれたの! だから碧棺さんは悪くないの!」
「だからそれはあいつに脅されて、」
「脅されてないってば! 何で私の言う事信じてくれないの?! そんないち兄なんて嫌い!!」
「んなっ?!??」

私の最後の言葉が効いてくれたらしい。いち兄は「き、嫌い…名前が…嫌いって…」とぶつぶつと呟き、そんな兄を置いて呆然と此方を見る碧棺さんの元へと駆け寄った。

「重ね重ね本当にすみませんでした! 兄は碧棺さんと仲が悪いとは言え、誤解して喧嘩吹っかけるし、私もそんな兄を止められずマイクまで取り出してしまう始末で、何てお詫びをしたらいいのか…」
「いや…まぁ、てめぇは悪くねーから取り敢えず頭上げろ」
「でも、碧棺さん…」
「その碧棺さんってのもやめろ。左馬刻でいい」
「さ、左馬刻さん?」
「おう」

名前を言うと、左馬刻さんは凄んでいた態度や表情から一変、柔らかい表情で私の頭を撫でてくれた。いち兄とは違う、丁寧な撫で方に嫌な感情は一切湧かなかった。

「左馬刻てめぇ名前に触んな!!」
「さんを付けろっつってんだろ。今日はてめぇの妹に免じて見逃してやんよ。だが次会った時はその腐ったタマ取ってやるから覚悟しとけ」
「あ"あ"? それはこっちの台詞だドグソ野郎」
「左馬刻さん、あの、本当にすみません、ありがとうございました」
「…次来る時は気をつけろよ、名前」
「っ! はい!」

まさか名前を呼ばれるなんて思ってもみなかったから驚き半分、嬉しさ半分で返事をするとそれに応えるかのように片手を上げた左馬刻さんにまた鼓動が高鳴っていく。すると隣にいたいち兄から「名前、その……」とおずおずと声をかけられた。先程まで左馬刻さんに対して凄く強気だったのに、と可笑しくなったが表に出さないようしっかり気を持つ。

「本当、悪かった。お前の言う事に耳を傾けてやれてなくて…」
「…ううん、こっちこそごめんねいち兄。言いつけ、破っちゃって」
「いや…名前が無事なら良いんだ。でも次からはちゃんと報告していけよ?」
「うん、わかった」

「それじゃあ帰るか」と先を歩こうとするいち兄の手を握ると、いち兄は秒もかからない速度で此方に顔を向けた。その表情はひどく驚いているもので、そんな兄の姿は中々見れないので結構レアだ。

「昔、帰る時いつもいち兄の手を握ってたから…ダメ、かな?」
「いや、ダメじゃねぇけど……」

「あーもうマジそういうとこ…」と顔に手を置くいち兄に首を傾げていると、グシャグシャと乱雑に頭を撫でられた。

「わぁっ!もう、髪の毛ボサボサになったじゃん!」
「ははっ言いつけ破った罰な」

歯を見せて笑ういち兄に私もつられて笑い返した。
その後家に着いてから買ったものを渡すと、いち兄は「お前が女神だったのか…」とまるで神様を拝むかの様に合掌されたの少し引いてしまった。けれど喜んでくれたのは素直に嬉しい。「ありがとな」と目を細めて頭を撫でてくれた時、ふと左馬刻さんの顔が思い浮かんだ。
…私から電話してみてもいいのかな。
左馬刻さんの事を考えながらスマホに軽く触れていたら「姉ちゃん、ご飯出来たよー」と今日の晩御飯担当である二郎から呼ばれ、私を待ってくれているであろう家族の集まる食卓へと早足で向かった。


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