夢野幻太郎


書き上げた原稿を封筒の中に入れ、幻太郎は一人小さく息をついた。後は明日担当が受け取りに来る手筈になっている為、これからは何をするのも自由な時間だ。幻太郎は夜中からずっと下ろしていた腰を上げて、居間にいるであろう愛しい彼女…名前の元へと向かおうと足を踏み出した。やっと二人きりの時間を過ごせるのが嬉しいのか、小さな口は緩く弧を描いている。きっとチームメイトである彼等が見れば茶化されそうな、緩みきった表情をしているとはつゆ知らず襖を開ける。
笑顔で出迎えてくれるだろうと期待していた幻太郎だったが、その願いは少しだけ叶えてくれなかった。名前は確かにそこに居たのだが、今彼女は夢の世界へ旅立っていたからだ。


(…まぁ、今日は比較的暖かいし…昼寝するには丁度いい温度ですしね)


残念に思いながらも、気持ちよさそうに眠る名前の顔を見ていたらそんな気持ちは何処かへと消え去っていった。名前と過ごすのが目的なので、幻太郎はこのまま彼女の寝顔を堪能する事にした。腰を下ろし、あどけない表情で寝ている名前をじっと見つめる。
原稿受け取りのバイトとして訪れた名前と出会い、何度か言葉を交わすうちに気づけば彼女が来るのが待ち遠しくなっていた。
恋とはこういうものなのか。冷静に判断したが、この感情に気づいてからというもの幻太郎は名前に対し素っ気ない態度を取るようになった。本当はもっと話したいし、あわよくば触れたいと煩悩が次から次へと溢れてきて爆発してしまうかもしれないと思っての行動だった。でもそんな幻太郎に対し名前は変わらず気の抜ける様な笑顔で接していた。
仕事上の関係から恋人関係となった後、幻太郎はこれまでの自分の態度について気づいていなかったのか、気を遣って敢えて顔に出さなかったのか本人に聞いてみた。すると答えは前者の方で、呆れてしまったのは記憶に深く残っている。そんな鈍感なところも可愛いと思えたのは名前だからなんだろうな、と幻太郎は一人結論を出した。
どんな時も優しく、いつも笑顔を向けてくれて、少し抜けてるおっちょこちょいな彼女に何度救われたことか。


「…いつもありがとう。愛してますよ」


幻太郎は小さく呟くようなトーンで気持ちを吐露し、頬に掛かっていた髪を優しい手つきで払う。そのまま頬を撫でてみると、滑らかで柔らかく心地よかった。


「…げんたろーさん…」


名前の口から自分の名前を呼ばれ、起こしてしまっただろうかと焦った幻太郎だったがその目は開く事なく、代わりに今も頬に触れている手に擦り寄ってきた。


「…ふふ、げんたろーさん…」


何だこの可愛い生き物は。
正直今すぐ抱きしめたい衝動に駆られるが必死に我慢した。録画もしておきたいところだが、生憎スマートフォンは部屋の机の上に置きっぱなしにしている。兎に角この目に焼き付けておかなければ、と更に目力を込めて今も擦り寄ってくる名前を見つめ続ける。


「そんなに妾の事が好きかえ?ん?」


また頬を撫でる。それに応じて名前も嬉しそうに声を漏らす。癒しの空間とはまさにこの事を言うんだろうな、と自然と口元が緩んだ。


「んん……あぇ、げんたろーさん…」
「おや…もう起きてしまいましたか。おはようございます、名前」


名前はゆっくりと瞬きしながら頭の中を覚醒させていく。そして、幻太郎に頬を触られている事に気付いたのはそれから数十秒後だった。


「いつから此処に?」
「ついさっきですよ。涎が流れる程気持ち良さそうに眠っていたのでカメラに収めておきました」
「えっ?!! うそっ!」
「はい、嘘ですよ」
「んもー!」


慌てて口元を拭う名前を見て満足そうにする幻太郎。いつもの如く騙されてしまった事に名前は一瞬ムッとした表情をさせたが、今回は嘘で良かったと直ぐに安堵の表情へと変えた。


「とても可愛い寝顔でしたよ。それに何度も小生の名前を連呼してました」
「…名前?幻太郎さんの?」
「ええ。…というか、小生以外の名前呼んでたら叩き起こしてましたよ」
「あはは〜呼ばなくて良かったです」
「言っておきますがこれは嘘じゃないですからね」
「ふふっ分かってますよ。幻太郎さんヤキモチ焼きですもんね」


いたずらっぽく笑う名前に対し、幻太郎は無言で名前の無防備なおでこを軽く叩いた。「イタッ」と痛い素振りを見せるが幻太郎の良心は全く痛まなかった。


「ん〜幻太郎さんも原稿が終わった事だし、そろそろ起きますか」
「おやおや、何も言ってないのによくわかりましたね」
「何となくわかりますよ、雰囲気や表情も柔らかいですし…お仕事お疲れ様でした」


名前は体を起こし、そっと包む様に幻太郎を抱き締める。一瞬驚いた幻太郎だったが、すぐに抱きしめ返した。ずっと求めていた温もりを感じ、思わず力を込めてしまいそうになる。先程みたいに眺めるのもいいが、言葉を交わし、触れ合える今の時間が何倍も幸せだと幻太郎は改めて感じ取った。





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