観音坂独歩
月曜日の朝程辛いものは無いと社会人になってから痛感した。自分のデスクに座り、パソコンの電源を付けるのも億劫な気持ちになる。
昨日散々寝たと言うのに夢の中でも出社していたせいか眠気は一向に抜けず、どうせ誰も見てないだろうと思い大きく口を開けて欠伸をした。
「おはようございます」
挨拶してきた苗字さんに恐る恐る顔を向ける間にも、欠伸してるとこを彼女に見られたんじゃないかと心配したが、微笑む姿はいつもと変わらぬ可愛さなのだからきっと見られてないだろうと1人心の中で納得する事にした。気を取り直して、隣のデスクに座る彼女に「お…おはようございます」と返す。
笑みを返す苗字さんが座ると同時に石鹸の匂いが香ってきた。それはとてもいい匂いで、先程まで沈んでいた気持ちが飛んで行く程だ。
彼女が隣の席になったのはつい1週間前。
俺より1年先輩の人が転職し、空いた席を詰める形で苗字さんが座ることになったのだ。「改めてよろしくお願いしますね」と笑顔で話しかけられて、内心ガッツポーズをしたのは昨日のことのように覚えている。
「大きな欠伸でしたね。昨日遅くまで起きてたんですか?」
「え"っ」
見られてたのか。恥ずかしさで口をパクパクさせていた俺に「すみません、見ちゃってました」といたずらっぽく微笑む苗字さんに心がキュッとなった。
「え、と…沢山寝たんですけど、どうにも眠気がとれなくて…はは…」
「そうなんですか。それはきついですね…」
うーん、と何やら考え込んでいる苗字さんに余計な事を話してしまったと言った後で後悔してしまう。
「観音坂さん、手出してください」
「えっあ、はい」
苗字さんの言う通り右手を差し出すと、手を握られた。えっあっえっ?どういうこと?うろたえている俺の事など露知らず、苗字さんはそのまま俺の手を揉んでいた。
何で俺の手を揉んでいるのとか、苗字さんの手が白くて綺麗だとか、ごちゃごちゃ考えるが答えが出るはずも無く、只1つハッキリ言えるのは心臓がバクバクして爆発しそうだということだ。
「眠気を覚ますツボがあるってテレビでやってたんです。どうですか? 目、覚めました?」
「…は、はい…い、色んな意味、で…」
「本当ですか? それなら良かったです」
嬉しそうに笑う苗字さんにまた動悸が早まった。いかん、これ以上は本当に爆発してしまう。
「苗字さーん、ちょっといいかな」
「あ、はい」
苗字さんは「それじゃあ今日も一日頑張りましょうね」と俺に一言告げ、手を離した後呼ばれた上司の元へと向かって行った。
まさか異性…というか、意中の女性から手を握られるなんて。こんな幸運なことがあっていいのか?もしかしたら空から槍とかが落ちてくるんじゃ…。
改めて握られていた自身の手を見つめてみる。この手に苗字さんが触れてくれたという事実を噛み締め、1つ決心をした。
(もう一生手洗わない…!)
その決意から僅か数分後、コーヒーを飲もうと席を経った所で丁度俺の後ろを歩いていた同僚にぶつかってしまい、彼が手にしていたアイスカフェラテが俺の手にかかってしまったので結局血涙を流しながら手を洗った。
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