やさしい恋人
真っ暗な部屋の中、私はそっと息をひそめていた。なるべく身体を冷やさぬよう頭までかぶった毛布を強く握りしめる。目はぱっちりと冴えていた。吐く息が、手を湿らせる。
コンコン、と控えめながらも確信を持ったようなノック音が響いて、私の息は一瞬止まった。ーーーー深く、大きく深呼吸をする。目覚めていることを悟られぬように、気付かれぬように。
「……なまえ?起きているの?」
軋む扉から冷気が流れて出たのを感じた。ブーツが床を踏みしめる音に耳をそばだてながら、私は寝息をたてるふりをする。ふいに頬を凍てつくような空気が撫でた。
「なまえ」
私の身体を隠していたはずの毛布が、ぱさりとベッドの下に落ちる。
「……イヴァンさ……」
「起きた?」
目を開けると同時にふわりと身体が浮遊感に包まれた。ひんやり、という表現を越えた体温の手が私の首筋をなぞる。イヴァンさんの冷たい両腕に抱きかかえられた私は震えそうになるからだをおしとどめて、彼の胸に縋った。
「おはよう」
「おはようございます……」
「今日もなまえはあたたかいね。……ね、寒いでしょ?」
「イヴァンさん、毛布返してください……」
「僕のからだも冷たいもんね。ごめんねぇ」
そう言いつつもイヴァンさんは私のからだを離す気が無いようだった。
「ん……イヴァンさん、ちょっと……」
刺すような寒さに負けてすこしだけ身じろぎをすると、ぐいと苦しいくらいに抱き締められた。あまりの力強さに骨が折れるのでは、と一瞬首をもたげた恐怖心から反射的に身体がびくりと動いてしまう。イヴァンさんはもちろんそれを見逃してくれるわけがなく、私の身体をだきすくめたまま私の顔を覗き込んだ。
「『ちょっと』、何?」
イヴァンさんの菫色の瞳に私の困惑した表情が映りこんでいる。
「……その、寒かったから、動こうとしただけです」
「そっかぁ。てっきり逃げられちゃうんだと思ったよ」
にこり、とイヴァンさんは笑う。−−私は冷たく澄んでいるバイオレットから目を離せないでいた。からだが思うように動かない。どくどくと頭の中を血が流れていくのを感じる。指先が急激に冷えてゆくのを感じた。
「……にげ、るわけ、ないじゃないですか」
声がかすれてうまく言葉にできない。
イヴァンさんの目が細められる。
「僕としては逃げてくれた方が楽しいんだけどなあ」
「え、………あっ」
唇が触れそうで触れない距離で見つめ合ったまま、私は力づくでイヴァンさんに押し倒される。手首を掴んで身体を押さえつけようとする彼に抗議しようと息を吸いこんだ隙に乱暴に唇を塞がれた。
「……っ!!や、」
ーー唇が切れたのか、ほんのり血の味がした。イヴァンさんはにっこりと微笑む。あの冷たいバイオレットの瞳のまま。
「うん?……何が嫌なの?」
きみに拒否権なんてないよ。耳元でささやかれた言葉はどこまでも冷たく残酷だった。イヴァンさんが私に覆いかぶさる。首元に鈍い痛みを感じながら、私は今日も目を閉じた。