低い燕を見た日は




「もうじき雨が降るな」

 鴎外さんに頼まれたお使いの帰り道、春草さんがそうポツリと呟いた。

「雨、ですか?」
「……ああ。ほら、見てご覧」

 春草さんの指先を辿ってみる。一匹の小さな燕が見えた。
 地面近くを飛び回るその姿になんだか違和感を覚えて、首を傾げる。

「……なんだか、いつもより少し…低く飛んでいるような……?」
「あれ、君、知らないの」

 春草さんは驚いた顔をして私を見た。

「何をですか?」
「燕が低く飛ぶと雨が降るって……知らない?燕は、虫を食べるだろ。雨が降る前って空気が湿っぽくなるせいで翅が重くなるから、虫が低いところに集まりやすいんだって……だから捕食者である燕も、いつもより低いところにいるってわけ」
「へえ、そうなんだ……!春草さんは、物知りですね」

 彼の豊富な知識とわかりやすい説明に、素直に感心した。すると彼は眠そうな目を少しだけ見開いて頬を赤く染めると、

「なっ……別に。これくらい…普通だろ」

 わかりやすく照れた。

「春草さんは素直じゃないですね」

 なんだか可愛らしくてクスクスと笑うと、春草さんは不機嫌そうな目つきで私を睨む。

「ちょっと。何の話をいつまでしてるわけ。……ほら、雨も降り出しそうだし、早く帰るよ」

 春草さんの手が強引に私の腕を引っ張る。その横顔はまだ、ほんのりと赤かった。





「それにしても、良かったです。鴎外さんが傘を持たせてくださって」

 雨は思ったよりも早く降り始めた。ポツリポツリと空から溢れる雫を前に、お店の軒下で、私は傘を開こうとする。

「……あれっ?」

「何してるの、なまえ。早くしなよ」

 一足先に傘をさしていた春草さんが、呆れたような顔で私を振り返る。

「あの、傘が開かないんです」

「……は。なんで。……貸して」

 春草さんの手に委ねても、傘はびくともしなかった。眉間に皺が寄ったのを見て、私は慌てて頭を下げる。

「ご、ごめんなさい春草さん……」
「……君が謝ることじゃないよ」

 そんな会話を交わしているうちに、雨はどんどん本降りになってきたようだった。春草さんは鴎外さんの無駄な気遣いかな、と小さく溜息をつく。

「? 何のことですか?」
「君は気にしなくて良いよ。……鴎外さんへのお土産、持てる?」
「あ、は、はい!持たせっぱなしでごめんなさい」
「良いよ。食べ物を食べるのに邪魔だっただろうし、……俺は男なんだから、荷物くらい持つよ。ただ今は、俺一人が全部持つと雨に濡れてしまいそうだからお願いしただけ」

 春草さんはそう言って、鴎外さんから受け取るよう頼まれた包みを懐に入れて、

「はいこれ。使いなよ」

 ずいっと傘を差し出してきた。

「しゅ、春草さん!?駄目ですよ!」
「どうして?俺は大丈夫だよ。包みを濡らさないように、家まで走れば良いし……こんな雨の中走ったら君、こけそうだから、それ使ってゆっくり帰りなよ」
「駄目です!」

 頭に被せようと、羽織を脱ぐ腕にしがみついた。

「駄目です!春草さんが風邪を……っ」

 途中まで言いかけて、春草さんとの顔の近さに驚く。

「す、すみませんっ……」
「……別に。謝らなくて良いよ。そうだな……」

 雨が地面を打ち付ける音がこれでもかというほど聞こえてくる。春草さんは顎に手を当て、思案深げな表情を浮かべた。そしてふと私の顔を覗き込むと、

「なまえ、走れる?」
「……え?走れますけど…」

 思わぬ質問に目を瞬かせた。すると、

「こっち。入って」


 
 春草さんは私の肩を掴んで自分の傘の中に引き入れると、

 走り出した。

 

「しゅ、春草さん!?」
「君の速さに合わせるから、無理しない程度で走って」

 春草さんの横顔はいつも通り静かで、ひっそりとしていて、無表情だった。高鳴る鼓動を抑えながら、鴎外さんへのお土産を抱き締める。

「……ありがとうございます」
「仕方ないだろ。もし二人で一つの傘を使っても、この雨の勢いだと、包みも土産も全部濡れるよ。………嫌だったなら謝るから」
「え、いえ、嫌じゃないです…!」

「……えっ!?」

 慌てて否定すると、春草さんが子どもみたいな声を出した。

 驚いて彼の顔を見上げると、

「………っ、何でも、ない。……そう。なら良いんじゃない。ねえ君、余所見しないで走りなよ」


 春草さんはそう冷たく言った。


「は、はい!」


 目を逸らす。初めて聞いた声が頭の中をぐるぐると駆け回っていた。心臓の鼓動がどくどくと波打っているのを感じる。


 いつか、あの無防備な声を、また聞ける時が来るのかな。



 
 


 ………………来ると良いな。







 私はそんな事を思いながら、六月の雨の空気を吸い込んだ。











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