蛙の唄
かえるのうたが
きこえてくるよ
昼下がりの静かな屋敷。朝から一度もやむことなく降り続けている雨に退屈したのだろうか。外からなまえが歌う声が聞こえた。
……外から?
俺は慌てて絵筆を置き、自室の窓を開けて下を覗きこむ。
「ちょっと君、何してんの!」
なまえは袴をたくしあげ、水たまりに脚を突っ込んで遊んでいるようだった。
……子供か!
雨音のせいで、俺の声はなまえに届いていない。俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
「フミさん、大判の手ぬぐいと暖かいお茶、それからお風呂を沸かして!」
そう屋敷のどこかにいるであろう使用人に向けて叫ぶと、俺は急いでなまえの元へ向かった。
かえるのうたが
きこえてくるよ
なまえは楽しそうに歌を口ずさみながら、傘をくるくるくるくる回していた。
「ちょっと……ねえ、君!」
厳しい口調で彼女の肩を掴む。なまえは驚いたようにこちらを見上げた。
「しゅ、春草さん!どうしたんですか!?」
どうしたんですかって……。予想外の言葉に度肝を抜かれつつも、俺は大きく息を吸った。
「どうしたもこうしたもないだろ…………外を見たら君が子供みたいな幼稚な遊びをしていたから、風邪を引いて鴎外さんに迷惑をかけないよう注意しに来たんだよ」
「大丈夫ですよ。これくらいの雨じゃ、風邪なんて引きません」
「心配するに越したことはないだろ。……ていうか、脚。君さあ、いくつなわけ?6つになる子女でさえ、そんなはしたなく脚を出したりしないよ」
「えっとこれは、袴を汚さないようにって……」
「……君、馬鹿なんじゃない」
俺はなまえの手を掴むと、屋敷の方へズンズン歩いて行った。玄関で待ち構えていたフミさんになまえを引き渡し、風呂へと連行させる。
「春草。今日はとても賑やかなようだね」
二階から寝巻き姿の鴎外さんが降りて来た。俺は大きなため息をつくと、
「……すみません。夜勤明けなのに、騒がしくして」
「いやいや、構わないのだよ。若い二人が仲睦まじいのは、結構なことだ」
「…………そんなんじゃありませんよ。俺は、居候先の主人に子ダヌキの面倒を命じられて、仕方なく相手をしているだけです」
「はっはっは」
鴎外さんは朗らかに笑った。
笑ったというより、笑い飛ばした……と言った方が的確だったかもしれない。
「ところで子リスちゃんは歌を歌っていたようだが……あれは何の歌なのだろうなあ。小鳥のさえずりのように心地良かったよ」
「……はあ」
読んでいた新聞を折り畳み、フミさんが淹れてくれたお茶を胃に流し込んで、俺はソファから立ち上がる。
「待ち給え春草、どこに行くんだね」
「……今度の展覧会に出す絵の続きをしに部屋に戻るだけですが」
「お前は子リスちゃんの世話係なのだろう?風呂から出て来た子リスちゃんの面倒を見給え」
振り向かなくても鴎外さんの意地の悪い微笑みが容易に想像出来た。俺はまたため息を一つついて、
「……鴎外さんがやれば良いんじゃないですか」
「……春草。目の調子が悪いようだが」
ピクリと身体が動いた。背中を冷や汗が伝う。
「…………気の所為じゃないですか」
「先程新聞を読んでいた時、酷く顔をしかめていた気がしたのだよ。…………私はこれでも一応医者だ。何かあるのなら……ちゃんと私に報告するのだよ」
俺は思わず唾をごくんと飲み込む。心臓が早鐘を打っていた。心なしか眩暈がする。
「……雨の所為で目が霞んでいるだけですよ」
…貴方に眼病を認められてしまったら、俺はきっと、絵の道を諦めてしまう。
「……失礼します」
俺は鴎外さんに一礼して、自室に戻ろうと階段を上った。
雨音に耳をすますと、妙に耳に残ったあの楽しそうな歌が思い出されて、俺は思わず口を動かしていた。現実から逃げるように、現実から目を背けるように。
かえるのうたが
きこえてくるよ
終