1.冬の日


 冬の日、塾からの帰り道。いつものクレープ屋さんに寄り道した、だけなはずだった。

「?」

 べちゃ、と何かが落ちてきて、私は足をとめた。――街灯の薄暗いあかりに目をこらして、認識した『ソレ』に、私は息を飲む。
 そこにあってはならないもの、そうなってしまっては決して生命が維持できないもの。――手にしていたクレープを取り落とすのも構わず、思わずに後ずさると、ぽすっと身体が何かに受け止められて、また悲鳴を上げそうになった。

「っ……!?」

 あまりの恐怖のせいか、声が出ない。なぜ、という思考はすぐさま弾け飛んだ。誰かが私の腕を引く。――ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。直感的に、魔術師だと思った。声が出ないのではない。声を奪われたのだと悟る・・・・・・・・・・・

「静かに。君は隠れていなさい」

 耳元に落とされた囁き声。目を見張った瞬間、誰かの手が私の視界を覆った。途端に、何も見えなくなる。動けなくなる。――突然ふかい闇の中に突き落とされたような感覚に恐ろしくなって身をすくませた途端、肺に新鮮な空気が流れ込んできた。

「ボクの声、聞こえてる?」

 木々のざわめきが身体を包む。視界に街灯の光がさしこむ。ーー生きて、いる。わたし。

「!……ゲホッ、ゲホッ……!」

 嘔吐しそうになるのをこらえながら、私は必死に『魔術師』から距離を取ろうと身体を引いた。背中をさすっていたぬくもりが消える。涙目で彼を見上げた。燃えるような朱に、黄金色。――サーヴァントだ、と思った。

「あ、なた……誰?」

 ーー驚いたことに私の口からぽろっと飛び出たのは、泣き言でも命乞いの言葉でもなく、そんな簡単で他愛もない問いかけで。
 『彼』の目が丸くなる。私に向かって伸ばされた手が恐ろしくて、私はしりもちをついたまま後ずさった。私の声を奪い、視界を奪った『彼』が次に何をしようとしているのか、手にとるように理解出来た。

「やめて。私の記憶を奪わないで。――おねがい、します……!」
「……驚いた。魔術師なのか、キミも」

 コクコクと頷く。とはいえ、由緒だとか家柄だとかそんなものは一切持ち合わせていない、祖父が魔術をちょっとかじっただけのなんちゃって魔術師だ。それでも、聖杯戦争が始まったことはもちろん聞いていたし、夜道は特に気を付けるようにと祖母に警告されていたのに――いろんな後悔が頭を過ぎって、心臓がうるさく音をたてはじめる。このまま無事に家に帰れる保証なんてないのに、私は思うがままに彼の手を両手で掴んだ。

「お、お願い。帰り道の記憶がないことを知られたら、寄り道して聖杯戦争に巻き込まれたことがバレちゃう。おねがい。おねがーいっ!このまま見逃してっ!」
「わー!?えと、ちょっとキミ……!」

 私はスクールバッグの中から財布を出した。アスファルトの上に正座をして、どうか!と差し出す。

「全部あげます!お金は全然入ってないから、何の足しにもならないかも……、でもパンケーキ屋さんのクーポンとか、和菓子屋さんのポイントカードとか、そりゃもうたくさん入ってますから……!」

 ――今思い返すと、どうしてこんなアホな言い分がまかり通ったのか理解できない。
 ぷっ、と『彼』は噴き出した。今となっては、『彼』の姿かたちはもう思いだせない。ーーだけどきっと優しい笑顔で、『彼』は言った。

「要らないよ。パンケーキもワガシも、正直心惹かれるけど。ジョシコウセイから金銭を巻き上げるほど、ボクは悪人じゃないからね」
「!それじゃあ……!」
「――でも、ゴメンね」

 ふわり、と額に手がかざされた。コツンと指輪のような、金属製の何かが触れる。

「見逃すことはできない。今日の景色は、キミみたいな新米魔術師にはすこし刺激が強すぎたから」
「そんな……!そんな、ことは……っ」

 傍らに転がるそれの存在を思い出して、うっと胃から何かがせりあがってくる。そんな私を見て、『彼』の瞳がやさしく揺れた。大丈夫、と『彼』は、なだめるように言う。

「何、全ての記憶を奪うなんてことはしないさ。――でも、怖いことは全部忘れておくれ」

 どうか最後まで、無事で。やわらかい微笑で、魔術師が私に囁く。それはまるで、あたたかい祝福のようで。――ぱっくり、と身体が闇の中に飲み込まれる。私は意識を手放した。



*



 ハッと意識が浮上するような感覚。月の光のあまりのまぶしさに、私は思わず目を瞬かせた。

「っ、あれ……!?」

 あたりを見渡す。私の傍に落ちてきた『何か』は消えていて、アスファルトには血すらも残っていない。――が、そこまで考えて、私は首を傾げる。血?一体、『何』が落ちてきたんだっけ……?
 やけに意識が朦朧としているなと思った。途端に、脳裏に燃えるような朱色と金色が鈍く光る。

 ……私は一体、誰と話していたんだっけ。直前まで『彼』と話していた内容は思い出せるのに、『彼』の顔も姿形もぼんやりと朧げで。

「……寂しいな」

 ぽつり、と感情がこぼれる。
 由緒もなく家柄も持たず、格式も知らない魔術師の端くれとはいえ、それでもれっきとした魔術師だ。こうした出会いと別れには慣れている、つもりだった。なのに、感情がこぼれる。寂しい。どうしようもなく、寂しい。対価も求めず、私を助けてくれた『彼』のことを、きれいさっぱり忘れてしまったことが寂しくて、悲しくて、悔しくて、私は唇を噛みしめる。言い訳ばっかして、お願いばかりして、お礼すらできなかった。
 足元に、手に持っていたはずのクレープがべちゃりと潰れていた。いつのまにか擦りむいたらしい膝が、じくじくと痛かった。




 そのあと風の噂で、聖杯戦争はキャスター陣営の勝利で幕が下りたことを聞いた。『彼』は無事だっただろうか。せめてクラス名だけは聞いておけば良かった、なんて。今更後悔したって、何もかもが遅すぎた。
 冬木の街には聖杯戦争の爪痕がところどころ残っているけど、とても前向きに復興が進んでいる。倒壊したビルも一夜にして現れた地割れも、爆破された市街地も――再建され、ならされ、立て壊されて、まるで何事もなかったかのように「街」の一部に立ち戻っている。

 かくいう私はというと、あの夜『彼』がかけてくれたおまじないがよっぽど効いたのか、その後の戦いに巻き込まれたり戦火に吞まれることもなく、無傷で戦争をやり過ごすことができた。無難に最終学年へ進級した今は、高校生活最後の行事を楽しみつつ、一般大学への進学に備えて受験勉強に勤しんでいる。

 ――アスファルトに染みた血の匂いと、魔術師との出会い。全てが夢だったのかな、と思うこともある。でも、そんな悩みも時折感じる切なさも、慌ただしい学生生活に忙殺されて、次第に顔を出さなくなってきた。それで良いのかもしれない。そうして、記憶は風化していくのかもしれない。
 だけど。

「えっ!……マギ☆マリ!?」

 不審者――もとい、ロマニ・アーキマンと私が出会ったのは、新都のクレープ屋でのことだった。

Fate
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