3.たぶん、おそらく、そのように


「ハァ〜イ。やあロマニ、調子はど〜ぉ?君の自慢の恋人を見に来たよーん」
「ッ、ぶふっ!?んぐ……っ!?…………っっ!?」

 バターンと医務室の扉が開いて、ボンキュッボンの妖艶な美貌の女性が現れる。私は紅茶を吹き出しかけたのを懸命に堪えながら、ロマンくんに向かって「説明を求めます!」のハンドサインを送った。私がお土産として持ち込んだどら焼きを頬張りながら、ぽや〜んとした表情でその女性を見あげていたロマンくんは、私が言わんとしていることを察した途端、口に含んだ緑茶をぶーっと噴き出した。

「え、ええー!?……ち、違う!断じて違う!ダ・ヴィンチちゃんはそんなんじゃない!かすみちゃん!ほんっとーに違うから!」

 ここまで来るといっそ清々しい。私は青い顔でぶんぶんと首を振るロマンくんに呆れながら、クローゼットから替えのシャツと白衣を出した。

「着替えて」
「かすみちゃんっ、ほんっとーに違うんだ、信じて、」
「着替えて。染みになる前に、早く着替えて」
「ううっ。違うんだよぅ。ぐすっ」
「はいはい」
「〜!怒ってる?怒ってるよな!?もうっ!ボクの恋人を揶揄うだなんて、ヒドいぞレオナルドーっ!」

 覚えておけよ!と子供みたいな喚き方をして、ロマニは白いカーテンの奥に消えた。私はさて、とレオナルドと呼ばれた女性に向き合う。

「……可愛いでしょう、私の恋人」
「うーん、信じられないよ。君みたいなしっかりした女の子が、あの・・ロマニの恋人だなんてね」
「『あの・・ロマニ』って何だよ、もう!」

 シャッとカーテンが開く。髪の毛をかきむしりながら、ロマニが叫ぶ。

「ていうか揶揄われていたのはボクの方だな!?二人は共謀していたのかいっ?」
「まさか!君も知っての通り、彼女と私は初対面さ」
「ええ……じゃあ何で……何で……そんなあ」

 めそ、とロマニがしょげる。……こんな調子で本当に、医療部門のトップを張れているのだろうか。心配になってレオナルドの方を見ると、肩を竦められる。

「ロマンくん、どうしたの。疑われたかったの?」
「違うけどぉ……でもなんかぁ、出会って秒で息ぴったりなのもちょっと、複雑ってゆーか……」
「君の心は乙女心より複雑で難しいねえ。何、ロマニ?つまり君、今の出来事だけで私に嫉妬したっていうのかい?」
「……その恥ずかしい質問に答えるのはー、アラサー独身男性的にちょっと厳しいでーす……」

 まさかねーとレオナルドが笑い飛ばしたのに対して、ロマンくんはぼそぼそと不貞腐れた声を落とす。ぎゅう、とまた正面からハグされて、私は想像以上の事態に目が回りそうになった。――そう。ロマニ・アーキマン予想以上に、絶賛メンタルに変調をきたしている最中らしい。

「ロマンくん」
「んん〜……」
「ロマンくんはそんなことしないでしょ。私、知ってるもの。からかってゴメンね」
「んん……」

 ぐりぐり、と頭突きされて、私はよしよしとロマンくんの背中をさする。レオナルドが羨ましそうな声を出した。

「いいなー。私も無償の愛で満たされたーい。恋人にあやされてー、慰められてー、エネルギーチャージしたーい」
「ちょっ……こっち来るなよ。かすみはボクのだぞ」
「ちぇーっ。ロマニのくせになーんか、ねえ?ていうか君、年下の女の子に自分のこと『ロマンくん』って呼ばせてるの相当、……相当、アブナイぞ」
「い、いいじゃないか。好きな女の子に何て呼んでもらうかくらい、ボクにだって選択の自由があるだろっ!」
「……見解の相違だな。うん、この件についてはまた今度検討しよう。ーーというわけではい、業務連絡だ。長旅直後なのにすまないね。かすみ・鈴懸、君の最初の仕事だよ」

 ドンと紙束が机に叩きつけられる。さっと表紙に目を通したロマンくんが、目を疑うような素早さで席を立った。すかさずレオナルドがロマンくんの首根っこを掴む。がくん、とロマンくんの身体が止まって「ぐぇっ」と潰れたカエルみたいな声が漏れる。

「いいかい、ロマニ。わかってるだろうけど、この場には君が必要不可欠なんだ。さあ、思う存分可愛い恋人に怒られろ」
「うう……!いやだー!ヤダヤダー!ダ・ヴィンチちゃん、キミは怒ったかすみちゃんの怖さを知らないからそんな無責任なコトが言えるんだぞーっ!?」
「……はー、やれやれ馬鹿だな。言われずとも、怒った恋人が世界一こわいのなんか恋愛の鉄則中の鉄則じゃないか。諦めろ、ロマニ・アーキマン。これ・・が彼女に知られるのも時間の問題。私としても、早いうちに済ませておくのが賢明だと思うけど?」
「うう……うぇえん……」

 めそーっ!という効果音とともに、ロマンくんがじたばたと喚く。私は怪訝な表情を浮かべた。

「……えっと、レオナルド。ロマンくんは、一体何を?」
「うん?読めばわかるさ。優秀な君ならきっとすぐにね・・・・・・・・・・・・・

 バン!とレオナルドが入り口の扉の前で仁王立ちになる。どうにかして逃げ出そうとしていたロマンくんはレオナルドと私を交互に見つめて、肩を落として床に座り込んだ。一体何があったというのか。私は書類を手に取る。レオナルドがにんまりと笑った。



*



 ――人理継続保障機関フィニス・カルデア。時計塔では机上の空論に過ぎないと貶されていたアニムスフィア家の件の理論は、私の想像の遥か先まで具体化していた。いや、それも大事なんだけど、そんなことよりも。私は分厚い資料に目を通しながら、首を傾げる。おかしい。これは、明らかにおかしい。

「ねえ、ロマンくん」
「……」
「ロマンくん。私の声が聞こえないの?」
「……き、聞こえてますぅ……」

 ロマンくんは床に正座して小さくなっていた。私は深く、深く息を吐く。

「たとえあなたが世界一のお医者さんだとしてもね。カルデアの医療スタッフが、みんなとても腕が良くて仕事ができる人たちだとしてもね」
「……うん」

 しおしおとロマンくんの身体が縮こまっていく。まるで塩をかけられたナメクジのようで、気を抜いたらぺしゃりと液体になって消えてしまいそうだ。可哀そうだけど、でも。私はしゃがみこんで、ロマンくんの顔を覗き込む。

「……かなり仕事が多すぎるんじゃない、これは」
「え、えっと。それは、医療スタッフみんながって意味……」
「ロマンくん」
「は、はいっ!」

 ロマンくんの目が泳ぐ。私はすかさず彼の頬を掴んだ。「ぶぇ」とロマンくんは悲鳴を上げると、ちらちらと私を見る。

「ロマンくん。今、お仕事かなり多いよね?」
「ソ、ソンナコトナイヨー?……マダハタラケルヨー?」

 ――ぴゅうと口笛を吹いて冷や汗をだらだらかいている彼の様子を見れば、その言葉が不正確な事実を表していることは確か、ではあるのだけれど。

「本人はこう言ってるけど。実際はどうなの、ダ・ヴィンチちゃん?」

 私はロマンくんが逃亡しないように扉の前に仁王立ちしている彼に尋ねる。カルデア召喚例第三号――レオナルド・ダ・ヴィンチはにっこり微笑んだ。

「うんうん、勿論騙されないでくれたまえよ?わかってるだろうけど、そこのチキンは君の前で良いカッコしたいだけだぜ」
「レ、レオナルドの馬鹿―っ!キミ、今の状況絶対に楽しんで、あぶっ!?」
「ロマンくん」
「……は、……はひ……?」

 私はロマンくんのシャツを掴んだ。目の下の隈、荒れた肌、カサカサの唇。心なしか顔色も悪くて、身体の線も前に会った時よりもかなり細いような。ぐっと顔を近づけると、ロマンくんは口をぱくぱくさせながら顔を赤くする。私は構わず尋ねた。

「ロマンくん。あなた今、辛いの。辛くないの。教えてくれなきゃ私、ロマンくんを助けられない」
「ボ、ボクは。えっと、……っ、うう、」

 ――ロマンくんはふいと目を逸らして、手のひらをこちらに向けて顔を隠す。

「……かすみちゃんっ!ち、ちかい。……近すぎる、かも」

 耳が真っ赤になっていた。
 ――付き合って何年も経っているのに、ロマンくんはいつまで経っても私との距離に慣れてくれない。私はぱちくりと目を瞬かせる。ダ・ヴィンチちゃんが噴き出した。

「あっははははは!そんな!まさか……ふっ、ふふははは!ロマニ・アーキマン!嘘だって言えよ!」
「な、何だよぅ……!だ、だって久しぶりの再会だぞぅ!照れて悪いか!」
「わ、悪くはないけどさ……!ロマニ、君ってやつは、年下の女の子にそんなふうに、ひ、ふ、振りまわ、あはっ!あっはっはっはっは!ひい……はあ、むり!ほんとむり笑いすぎて、ははっ、死ぬぅ!」
「そんなに笑わなくてもいいじゃないか!もう、もう、もう……!レ、レオナルドの馬鹿―!」
「わ、わかったわかった!出て行くから!ああコラコラ、そんな押すなって。――あ、かすみ!また夕食の時にでも会おうね!」

 パタン、と扉が閉まって、騒がしい彼の楽しげな声が途絶えた。――羞恥と怒りのせいだろう。ぷるぷると肩を震わせたロマンくんが、こちらをゆっくり振り返る。

「――そうですよーだ。ボクは年下の女の子に振り回される、……ダ、ダメなオジサンですよーだ!」
「何言ってるの。ロマンくん、まだ二十代でしょ?」
「二十代は二十代でも、ボクはキミと違って立派なアラサーだもん」
「……どうして拗ねてるの?」
「……拗ねてない。拗ねてないもん」

 デスクチェアに座ったロマンくんが私の腕を引く。すっかり痩せてしまった細腕のどこにそんな力があったのか。私はロマンくんに向き合うようにして、彼の膝に乗せられた。ロマンくんはそのまま私の首筋に顔をうずめる。あたたかい吐息が微妙にくすぐったい。

「どうしたの」
「んーん……」

 ぐりぐり、と額を押し付けられるたびに、アプリコットの髪がふわふわと揺れる。ぎゅうと腕に力が込められて、私はロマンくんの頭を撫でた。ぼんやりしたような、でも少し思いつめたような顔で、ロマンくんがぽつりと言う。

「……ゴメンね、かすみちゃん」

 謝らなきゃいけないことがある、と言った声は小さかった。尋常ならざる様子に、どくり、と心臓が波打つ。私はロマンくんの頬に手を伸ばした。エメラルドの瞳が揺れている。心細そうな顔だ。

「……どうしたの?」
「その。ボクの都合で、ずっと君を振り回してる。……今回だって、せっかく時計塔に落ち着いたところを呼び出してしまって。ボクは……君に、なんと言えば」

 ちく、と心が痛む。私がロマニに謝られる筋合いなどない。――私は、彼に落ち度など一つもない、と言いきれるだけの自信がある。

 ロマニ・アーキマンが『何かしらの目的』を持って私に近づいたのだと気が付いたのは、高校卒業を間近に控えた頃のこと。三流魔術師の家系に生まれはしたものの、魔術を極める気も『根源』に至ろうとする熱意もなかった私は、卒業後は一般大学への進学を進路に定めていた。――だけど、大学合格の報せを聞いたロマンくんは顔を真っ青にして、あろうことか合格通知書を破り捨てようとしたのだ。
 私が止めると彼ははっとして平謝りしてくれたけど、ロマンくんはその日からやけに熱心に魔術の手ほどきをしてくるようになった。――あ、この人は私に魔術師の道を選んで欲しかったんだなと気付いて、妙に納得してしまったのを覚えている。
 本来、ロマニ・アーキマンという人間は、私のような平凡な人間には縁遠い存在なのだ。そんな彼が、『ふつう』な私にここまで合わせて付き添って、同じ時間を過ごしている理由。それが明確になったことで、ふっと胸のつかえが下りた。ロマンくんの口添えでアニムスフィア家からの推薦状をもらって、時計塔に留学して、一端の魔術師としての地位を得て。彼の助力の裏には、一体何があるんだろうと何度も考えた。考えて、考えても、わからなくて。わからなかったから、わからなかったけど、私は。


「――私を魔術師に育て上げた、ロマンくんの思惑がどのようなものであっても……最終的に、魔術師になる道を選んだのは私だよ」

 ロマンくんの腕がぴくりと動く。
 私はぽんぽんと彼の背中をなだめるように、優しくさする。

「カルデアに私を呼んだのがロマンくんだとしても、いろいろ、……将来とか生活のことを考えて、時計塔を辞めてここカルデアに来ようって決めたのも私。それに今回に関しては、まさかカルデアにロマンくんがいるなんて知らなかったし。ほんとだよ?」

 ロマンくんの呆然とした顔が真っ青になっていく。何かを言おうとしたのか一度口を開けて、ロマンくんはふるふると首を振った。ぐしゃり、と白い手袋が彼の柔らかい髪を掴む。—―かなわないなあ、と彼は泣きそうな顔で笑った。

「……ロマンくん」
「……っぐ、……ひっ…………ぐ、」

 ぼろぼろと涙が零れてきた。目の端を拭ってあげようと手を伸ばすと、顔を背けられる。かわいいな、と思った。冷たくなった指先を捉えると、ぴくりと肩が弾む。息が浅い。顔にかかったアプリコットの髪から、赤くなった目が覗く。—―ぞくり、とした。きゅうと心が締め付けられる。

「見ない、で」
「どうして?」
「今、ボク、カッコ悪い。……はずかしいから、っ……」
「そんなことないよ。ーーほら、ロマニ。ゆっくり深呼吸して。こわくない、こわくないよ」
「ふ、っ……。ひ……ぐっ、」

 酸欠気味の彼の背中を優しくさする。ここまで自分を追い詰めなくてもいいのになあ、なんて。……何も知らない私が言えることじゃないかもしれないけど。

「私のこの人生は、私が選んで、私が決めたものだよ。……何度考えても、あなたの意図はわからないけど。それでもね、私はロマニ・アーキマンが好き。確かに2年間も連絡がなかったのは寂しかったけど、こうして生きて会えたわけだし、私は嬉しいよ。……それじゃだめ?」
「……っ、もう。もう、本当に、キミってひとはぁ……」

 浅かった息が、だんだん落ち着いてくる。アプリコットの柔らかい髪を撫でると、ロマニ・アーキマンはぎゅうと私に抱き着いてきた。耳元を生温い吐息がくすぐる。

「ボク、かすみちゃんがいないと、もうダメかも……」
「っ……」

 ほんとうに、この、ひとたらし。
 私は思わず、ふ、と吹き出してしまう。泣きすぎたのか、ぼんやりとしている彼の頬を軽く摘まんでやる。

「そんなこと言って。気が付くと私の前からいなくなってるのは、いつもロマンくんの方じゃない」
「そ、れは……」

 目の端から零れ落ちた涙を人差し指ですくう。どうしてそんなに悲しそうな顔をするのかな。かわいそうで、可愛くて。――何でもできちゃうのに、泣き虫で、弱虫で、優しくて、『私を利用している』自分に傷ついちゃうような、人間らしい彼が、好き。

「私、カルデアここに来れて嬉しい。ロマンくんと一緒に働けるのが、本当にうれしい。魔術師になってよかったって、今本当に心の底から思ってるよ、……ロマンくん?」

 ――途端に、噛みつくみたいにキスされる。息つく間もなく、ぐいと腕を引かれて強く強く抱き締められた。

「ゴメンね。……いろいろ、ほんとに。ゴメン。でもボク、きみが好き。ほんとにすきっ……」

 耳元で囁かれた声は震えていた。今日のロマンくんは、やけに泣き虫だ。

「わたしも、ロマンくんが……」

 驚くことに、私の声も少しだけ掠れていた。びっくりして、そのあとに続けようとした言葉を飲み込んでしまう。

 飛んで火にいる何とやら、に自ら進んでなりにいっている私は、正直なところすこしだけ焦っていた。走っても走っても、ロマンくんの背中しか見えない。必死になって追いついても、彼は私の手をするりとすり抜けて、いつの間にかいなくなってしまう。――本当に、こわい。ふと気を抜いたら、ロマニ・アーキマンという存在を見失ってしまいそうで、恐ろしいと思ってしまう。
 私をどれだけ利用してもいいから。ロマニ・アーキマンが私の人生に手を加えて、本来のカタチすら留めないようなものにしてしまっているとしても、それでも構わないから、私は。

「……もういなくならないでね、ロマニ」

 懇願。この声は彼に届くのだろうか。
 すべてを諦めてしまったような笑みを浮かべる彼が、ずっと視線を向けているその先に何があるのかを、私は知らない。さみしくて、歯痒くて、もどかしくて、彼の手に指を絡ませる。手袋の奥のぬくもりと、指輪の硬い感触。
 ロマニ・アーキマンはここにいる。目の前にいるはずなのに、不安で不安でたまらない。
 ゴメンね、と彼が小さく呟いた。細い身体に抱きしめられながら、もっと私に力があったらなあ、なんて呑気なことを考えてしまう。私がもっと強かったら、ロマンくんが怖がっている全てを取り除いてあげられるのにね。こんなの、子供が言うような絵空事だと理解してる。だけどせめて、彼が背負う重荷を減らせたらな、と願ってしまう。

「かすみちゃん」
「なあに?」
「……ちゅーして、……ください。げんき、出るかも」

 甘い。甘いなあ。この人は、本当に。今にも泣き出しそうな彼に飛び付いて、リクエスト通りキスをする。
 大好き。ロマンくん、大好きだよ。
 ――だから、どうかこれから先、彼が育てた魔術師わたしが、ちゃんと彼の役に立ちますように。


Fate
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