4.鏡と背中合わせ

「ん……う、……」

 長い長い夢から覚めると、目覚めた先もまた夢であった。


 ーー昨日より一回り二回りも小さな華奢な身体に、重苦しい倦怠感がのしかかる。落ち着かなくて、何と無しに咳払いをしてみる。喉から出た声は、声変わり前のように甲高かった。

 セブルスはだるい身体を無理やり起こして、ベッドの下に揃えられた靴へ足を入れた。自分の足は子供のように小さくて、やけに頼りない。小さすぎてサイズの合っていなかったはずの靴が、今はぶかぶかでスリッパのようだ。

「セブ、起きたの?」
「リリー」

 疲れきった顔の赤毛の男は見覚えが無かったが、燃えるようなエメラルドの瞳は紛れもなく幼馴染の彼女だった。セブルスは思わず安堵する。リリーは癒者志望の上級生と一緒に、医療崩壊直前の医務室を支えていたらしい。

「リリー、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
「あなたこそ。――ちょっと待っててね、シャーロットを呼んでくるわ。あの子、今マダム・ポンフリーの部屋に匿ってもらってるの」
「……?何やってるんだあいつは」
「今のあの子は座ってることがお仕事なのよ」

 リリーの気遣わしげな声に、セブルスは首を傾げた。

 ややあって、シーツをかぶった背の高い男がやってきた。ハロウィンの仮装のように目の部分が開いているわけではないようで、支えになるものを探すように手を前に出しておぼつかなそうにふらついているものだから、妙に悪目立ちしてしまっている。――ホグワーツにはあんな奇行を堂々とする人間がシャーロット以外にもいたのか、なんて変に感心していると、男がシーツからぷは!、と顔を出した。銀髪が跳ねて、海と空が混ざった青が瞳に満ちている。
 シーツの中身は、シャーロットであった。

「セブルス!」
「おい。一体何してるんだ、君」
「隠れてるの。匿って?」

 その瞬間、なぜか向かいのベッドで診察をしていた七年生が手に持っていた問診票をカシャンと落として卒倒した。ベッドに横たわる患者も鼻血を出して顔を赤らめている。リリーが般若の形相でシャーロットをベッドに投げ出し、カーテンを勢いよく閉めた。――セブルスは瞬時に、シャーロットの身に何が起こっているのか、というよりシャーロットがどんな事態を引き起こしているのかを悟った。

「……まあ、というわけよ」
「なるほどな」

 シャーロットは能天気にベッドに潜り込んでにこにことこちらを見上げている。怒る気力も失せて、セブルスはリリーと顔を見合せてため息をついた。



*



 セブルスはこの五年間、シャーロットの面倒を見てきた。ゆえに、生理の仕組みを熱心に本で学ぼうとしたし、その辛さも理解できているつもりでいた。しかし。

(生理とは、こんな苦痛を強いられるものなのか)

 じくじくと疼く下腹部の何とも形容しがたい鈍い痛みに、セブルスは顔を歪める。
 生理が来ると起き上がることができず、授業を休みがちだったシャーロットの姿が鮮明に思い起こされて、セブルスは胸が痛んだ。もっと気遣ってやるべきだったかもしれない、もっと優しくしてやるべきだったかもしれない、とセブルスがシャーロットに謝ると、シャーロットは一瞬驚いた顔をしてからそっと気遣うような笑みを浮かべた。

「大丈夫。セブはいつも優しくしてくれて、私、すっごく助かってたよ。――だから、ね。辛かったらすぐ言って?私、何でもするからね」
「ああ、ありがとう。……助かる」

 いつもと変わらない光景、いつもと同じやりとり。シャーロット・ベイカーという人間は身体が男に変化しても変わることなくたおやかで、変わり者で、美しかった。セブルスはシャーロットの言葉に安心して、やさしく絡められた指に力を込める。……の、だが。

 シャーロットの一挙一動に合わせて、周囲から歓声が上がる。大広間、スリザリン寮のテーブルで、シャーロットとセブルスはいつものように夕食を食べていた。食の細いセブルスのためにリリーが盛り付けしてくれた少数精鋭の栄養食を、セブルスはほぼ機械的に口に放る。
 ――目の前ではスリザリンカラーの派手な法被にハチマキを締め、メガホンを片手に怒声を飛ばす自寮の後輩が椅子の上で「ピーッ!」とホイッスルを吹いていた。

「シャーロット先輩から半径1.5m以内の場所に入らないで!――おいそこの黄色!ハッフルパフの二年、お前だよ!白線を踏み越えるな!」
「ねえレギュラス君。そこで規則破りの会員を捕まえたんだけど」
「ッス、リーマスの兄貴!ホグワーツの敏腕猟師の名は伊達じゃねえッス!煮るなり焼くなりどうぞ兄貴のお好きなようにしてくださいッス!」
「はは、照れるな。レギュラス君褒めすぎ」
「そんなことないッス!先輩の弟であるリーマス先輩のこと、本気の本気で尊敬してるッス!我が君って呼ばせていただいてもいいッスか!?」

 セブルスが寝ている間に、どうやら複雑な人間関係が形成されていたらしい。
 セブルスは胃が痛くなるのを感じた。さす、と腹を撫でると、シャーロットがセブルスの背中をさすった。

「セブルスお腹痛い?サラダ食べて冷えちゃったかな」
「あ、いや……」
「無理はしちゃだめだよ。顔青いけど大丈夫?」

 正直なところ、さっきから下腹部あたりがじくじくと痛んでいた。貧血っぽいな、とシャーロットがセブルスの額に手を差し込むと、野太い声と黄色い声が混じった歓声が上がる。――男性バージョンのシャーロットは、女子生徒(野太い声)だけでなく男子生徒(黄色い声)までも魅了してしまっているようだった。

「レギュラス、私たちは寮に帰るよ。セブの残した食事を持ち帰りたいんだけど、どうしたらいいの?」
「先輩!僕、屋敷しもべ妖精に言ってお弁当箱に詰めてもらってきます!後でお持ちしますね!」
「ほんと?ありがとうね、レギュラス。――じゃあセブ、行こうか。立てる?」
「ああ」

 椅子から立ち上がろうとした瞬間、めまいで頭がくらりとする。シャーロットが言う通り貧血気味らしい。セブルスがよろけると、ぱし、と優しく肩が支えられる。
 ――顔を上げる。心配そうな表情のシャーロットがこちらを見下ろしていた。

「シャーロット、すまない。少しめまいが」
「セブルス、しっかり掴まってて」
「え?」

 やけに整った顔が、珍しく真剣な表情になって一瞬見惚れてしまう。その瞬間、軽々と身体が持ち上げられた。ーーまた例の歓声が上がる。
 セブルスも予想外の浮遊感に「ひっ!?」と情けない悲鳴を上げると、シャーロットはにこにことかわいらしい微笑みを浮かべた。

「つらいところはない?今の私、力持ちなの。何でも出来ちゃう!」
「ちょ、えっあ!?待て、シャーロット。待て!」
「?」

 これが世に聞く王子様フィルターというやつか。セブルスはシャーロットの笑顔を眩しく感じて、思わず目をそらしてしまう。
 もともと天真爛漫で(まあ僕に対してだけなのだが)、いつも笑顔で(これも僕にだけだ、彼女は人見知りだから)、優しさと思いやりにあふれている(見当違いな気遣いやぶっとんだ優しさが多いのが玉に瑕だが、そこも愛らしいと僕は思う)シャーロットだ。性別が逆転して背が伸びて身体が大きくなって、見た目と存在感はかなり変わったが、中身も顔もほとんど変わっていない。……はずだ、とセブルスは思う。
 変わっていないはずなのに、何故突然こんなに注目されてしまっているのか、先程からセブルスはずっと考えていた。考えすぎたせいで、腹の痛みがさらに増している気さえしたほどだ。
 そして、セブルスは気がついてしまった。

「セブルス、どうしたの?大丈夫?」
「え、あの。……その、だな」

 見える。見えるのだ。自分を覗き込むシャーロットの頭に、ぴょこぴょこと犬の耳がついているのが。
 いや、本当に犬耳が生えてきたわけではない。比喩である。
 ……それにしても、心なしか耳だけでなく、ぶんぶんぶんぶんと尻尾も揺れているような気もする。

「えっと。シャーロット、あの……えっとな」

 セブルスが絞り出すようにそう言うと、シャーロットの目がぱちぱちと瞬く。
 うう。まぶしい。なんてまぶしいんだ。

 ――そう、身体が大きくなり、その美貌も相まって「とっても目立つ」ようになったシャーロットは、いつも通りの所作や表情や感情表現も「とっても目立つ」ようになってしまったのである。

 それはセブルスへの愛情表現にも言えることで、大きくなった身体に比例するように、シャーロットの愛情表現は倍増した。
 まだ体の小さい若い小型犬が飼い主に向かって駆け寄るのと同じ熱量で、ゴールデンレトリバーが飼い主の身体に突進するのを想像してみてほしい。
 ここでいう「若い小型犬」は性別が逆転する前のシャーロットであり、「ゴールデンレトリバー」は逆転後のシャーロットだ。

 セブルスは「加減しろ」とシャーロットに言いかけて、うっと口を噤んだ。なあに?なあに?とにこにことこちらを見つめるシャーロットに説教をするのは、なんだか野暮な気がした。というか眩しすぎて直視できなかった。セブルスはちょっと迷った後、シャーロットの胸をぽかりと叩いた。そんなセブルスを、シャーロットはきょとんとした顔で見つめる。
 ――シャーロットはいい意味でも悪い意味でも、どこも変わっていない。性別の変化にかなり戸惑っていたセブルスの心が、すっとほぐれていくのを感じた。

「レギュラス」
「どうしました、セブルス先輩?」
「シャーロットのファンクラブ、だったか。……お前、ちょっとは加減しろよ」

 何たって今シャーロットが振りまいているこの愛情は、全て自分に向けられているものなのだ。
 “秩序を与えるためのシステム”としてのファンクラブは容認してやってもいいが、周囲の熱量を飴と鞭で底上げするような手法はいただけない。

「……もう。セブルスも素直じゃありませんねえ」
「なになに?何の話?」
「言うなよ、レギュラス」
「わかってますよ」
「え、何それ!二人だけずるいずるい!ずるい〜!」

 はいはい、と苦笑するレギュラスを不思議がって、シャーロットがセブルスの顔に擦り寄る。――両手が塞がってしまっているがゆえの行動だったのだが、これを目撃した大広間は一瞬怖いほどの沈黙に満ちた。
 セブルスがぎょっとした瞬間。
 ――会場が、沸いた。

 王子様エフェクトがかかった大型犬の愛情表現は生徒の心にことごとくクリティカルヒットしてしまったらしく、セブルスたちは突然熱狂の渦に巻き込まれる。
 頬を染めたエイブリーが「お、俺、新しい扉開いちゃいそう……」と興奮した様子で言っているのが聞こえて、セブルスの心は一気にファンクラブ肯定派に傾いた。

「レギュラス」
「何です、セブルス」
「手加減はいらない。徹底的にやれ。全員叩き潰せ」
「かしこまりました」

 大広間の隅で、ジェームズがにやりと妖しげな微笑みを浮かべる。セブルスが舌打ちしかけたその時――リーマスが投げたらしい煙幕花火が爆発して、大広間は更なる混乱に陥った。突如走り出したシャーロットに身体が追い付かず、セブルスは潰れた蛙のような悲鳴を上げる。

 ――そんなしっちゃかめっちゃかなホグワーツを、微笑を浮かべるダンブルドアと、呆れた表情のマクゴナガルが見守っていた。




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 早く誰か正気に戻ってほしい。

トワレの小瓶
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