6.ぜんぶまぼろし

 寮の物置――そこは、卒業生たちが置いていった数多の代物の眠る、ホグワーツ屈指の無法地帯である。

 潔癖症気味な生徒が多いことで有名なスリザリンも、例に漏れず寮の奥深くにそんなカオス空間を隠し持っていた。
 何十年も前の版の教科書、煤けた魔法鍋、一つしかない靴下。そんなガラクタたちがぎっしり詰まった物置は、スリザリンの監督生たちの頭痛の種だった。――というのも、物置の中にあるのは無害なガラクタたちだけではない。取扱説明書の無い呪いの道具が、生身のままでごろごろ転がっているのである。
 触らぬ神に祟りなし。そう、『闇の魔法使い』を何人も輩出しているこの寮において、「物置は開けるな」という不文律は頑強なものだった。

 ……ものだった、はずだった。






「……なんだ、これは……」

 物置のドアをくぐりぬけるとそこは豪華絢爛なパウダールームであった。
 奥の方からシャワーの音が聞こえた。蒸気で視界が白く曇った。

 落ち着けないほどきらびやかな空間に、セブルスはひたすら怯えた。

「うっわー、ここほんとに『開けるな危険』の物置ですか?ホグワーツの予算大丈夫なんですかね?」

 興味深そうにきょろきょろとあたりを見渡すレギュラスに、セブルスは力ない声で「さあな……」と返す。
 レギュラス曰く、「いつもの大浴場では生徒のプライバシーへの配慮が足りないのではないか」との声が職員会議で上がり、校長が急ごしらえで各寮に完全個室のシャワールームを用意してくれたらしい。いやあ万々歳ですね、来年もこれ残ってればいいなー、……と上機嫌なレギュラスの隣で、セブルスはひたすら、ひたすらに怯えていた。

 ほどよく明るい照明に、嫌味にならない程度の甘い香り。ぴかぴかに磨き上げられた鏡台たちの上には、ずらりと豪華なアメニティが並んでいる。淡い色の壁紙、アンティークの調度品、品よく活けられた薔薇の花。

 初めて目にするパウダールームに、セブルスは後ずさりした。

 怖い。……なんだここは。怖い。

 ――セブルスの動物的本能が咄嗟に感じた感情は「恐怖」だった。
 面倒なタイミングでグリフィンドールの阿呆共に遭遇してしまった時と同じくらい、早く自分の部屋に帰りたい。

「何してるんですセブルス。早いところシャワー浴びて部屋に戻りましょう」
「……あ、ああ。そうだな」

 思いがけず百貨店のブランドショップに迷い込んでしまった人よろしく、セブルスは挙動不審な動きでレギュラスの後を追う。
 パウダールームの奥は、シャワールームのスペースになっていた。――等間隔に並んだ個室から、頬を上気させた女の子が出てきて二人はぎょっとする。

「……。シャワールーム、作って正解ですね」
「……。風紀が乱れるのも時間の問題だろうな」

 さて。

 レギュラスと別れたセブルスは、おそるおそる空いているシャワールームを覗き込む。
 実家のバスルームより、少し狭いくらいだろうか。入り口付近に脱衣スペースが設けられていて、カーテンで仕切られた奥がシャワースペースになっているようだった。

「……げ」

 大きな鏡に、血色の悪い痩せ型の女が映っていた。――それが自分だと気付くのに、しばらく時間がかかった。

 セブルスはため息をついて、キャスター付きのワゴンに乱雑に着替えを置いた。鏡を見ないようにしながら、着ていたものを全て脱いでカゴの中に投げ入る。使用済みの生理用品は、ちり紙に包んで上着のポケットに押し込んだ。

 よし。第一関門は突破した。ここから、どうするのが正解なのか。

 いや、女の身体も男の身体も、シャワールームですることなんて変わらないだろう。
 とっとと髪を洗いとっとと身体を洗いとっととこのぬるぬる居心地の悪い股を徹底的に洗い、――早く服を着て早く部屋に戻ろう。

 そんなセブルスの計画は、備え付けの棚にぎっしりと並べられた色とりどりのシャンプーボトルによって、見事にに打ち砕かれた。

「さすがに多すぎるだろう、これは……!」

 セブルスは震える手で、片っ端からシャンプーのラベルを確認していく。いつものシャンプーはないのか、あの安いやつ。見慣れたロゴを求めてがちゃがちゃと棚を漁っていると見慣れない言葉が目に入って、セブルスは薄桃色のボトルを手に取る。

「……!?こ、コン……ディショナー、……って何だ……!?」

 とにかく説明を読もうと、いかにも高級そうなボトルをひっくり返す。――セブルスは撃沈した。読めない。おそらく、フランス語あたりの言語で書かれているのだろう。

 コンディショナーってなんだ。
 リンスならわかる。薬局で、シャンプーとセットになって置かれているのを見たことがある。……これは推測の域を出ないのだが、リンスとは、おそらくシャンプーで洗浄した髪の摩擦を軽減するような作用があるものだ。指通りの良い滑らかな髪に、とかなんとか宣伝文句がついていたのを覚えている。
 ……じゃあ、コンディショナーってなんだ。語感的に、リンスと同じ役割を果たしていそうなものだが。リンスと何が違うというんだ。

 セブルスは諦めて、次のボトルを手に取った。控えめなデザインのそれにすこし安心感を覚えて、もうこれでいいかとポンプを押して、手のひらに出してみる。その瞬間、むわりとむせるような香りが広がって、セブルスはあわてて洗剤を洗い流した。

(そうか、匂いの問題もあるのか……)

 出来れば、ほとんど香りの無いようなものが望ましい。仕方がないので、セブルスはいちいちシャンプーボトルの蓋を開けて香りを確認していくことにした。――相方のリンスだかコンディショナーだかはつけるつもりがないので、飛ばし飛ばし匂いを吟味する。

「あ、……」

 透き通った水色のボトルを開けた時、心地よい香りが広がって。セブルスは心臓がどくりと大きな音を立てるのを感じた。この香りは、――この香りは。銀髪の彼女の顔が浮かんで、セブルスは顔を赤らめる。

 ボトルをひっくり返すと、ラベルには見慣れない文字が印字されていた。思わず判明してしまった彼女の愛用シャンプーに、ごくりとセブルスは唾をのみこむ。
 ――いや、何をしてるんだ。これじゃ変態みたいじゃないか。首を振って、次のボトルを手に取ろうと顔を上げる。
 セブルスは眉をしかめた。どうやら、全てのボトルを吟味し終えてしまっていたらしい。

 一番匂いがまし、というか好みなのは、やはり彼女のシャンプーである。

 好みというか、好み……というと何だかアレだが。いや、まあ、うん。好み、である。

 今まさに何か、理性だとか慎みだとかそういったものが試されているような気がした。使うべきか、使わないべきか、それが問題だ。――迷った末にセブルスは、まあ検討してやらんでもないなと思っていた高そうな薄紫のボトルを手に取る。蓋を開けるとむっと薔薇の香りが漂った。

 ……。

 薔薇の香りのセブルス・スネイプ、か……。

 自分の事ながら、考えるだけでもぞっとしてしまう。気が付いた時には、彼女のシャンプーを手のひらに出していた。手のひらに出てしまったものはもうどうしようもないので、セブルスは黙って頭を洗うことにした。

 それにしても、なんだろう。こう、ぐっと来てしまう。不覚にも、彼女の香りに包まれるような感覚に頭がぼーっとしてくる。
 いや、そういうわけではない。断じて、そういうわけではない。そうじゃない。絶対に、違う。
 今はいろいろと心の余裕が無くて、それでこう、安心感を感じてしまっているだけで、別にそういうわけではない。
 セブルスは全力で全否定しながら、下半身の相棒が不在であることに心から感謝した。目に見えて反応してしまっていたら自分に対しても言い逃れが出来なかったし、――というかまず、罪悪感で死にたくなっていたかもしれない。

「……うーん。なんか変だな」

 セブルスは髪の水気を切りながら、さわさわと毛先を触ってみる。全体的にごわついて、何だかまとまりがない……ような。
 セブルスが日ごろ使っていたのは、シャンプーとリンスが一体化したものだった。いわゆるリンスインシャンプーとかいう代物である。安いものを適当に使っているためにそういった知識が一切無いセブルスであったが、ーー彼はボトルのラベルをまじまじと見て(読めない)、当てずっぽうながら「これはシャンプー単独で成り立たないものなのかもしれない」と結論付けた。美容に対してのこだわりを蚊の目ほども持ち合わせていないセブルスだが、さすがにごわつきすぎると勉強やら実験やらの邪魔になるので、ペアとなるリンスだかコンディショナーだかを使うことにした。

 もったりしたテクスチャのそれを、とりあえず髪全体に馴染ませてみる。途端にするすると指通りがよくなって、セブルスはほうと感心した。
 シャワーを出して、軽く髪をすすいでみる。ぬるぬるとした成分を丁寧に洗い流すと、――少しやりすぎてしまったのかもしれない。さっきよりはましになったが、少し指通りが悪くなってしまった。
 やり直しも考えたが、そこまでこだわりがあるわけではない。まあ、及第点は超えただろう。そう思って、身体を洗おうとスポンジに手を伸ばす。その時だった。

 なんだ、あれは。
 震える手でチューブ状のそれを掴む。シャンプーと同じロゴだ。文字が読めないから詳しくはわからないが、同じブランドのもので間違いないだろう。
 ラベルを凝視する。――唯一アルファベットで書いてある部分に、セブルスは衝撃を受けた。

「ッ、ト……トリート、メント……!?」

 トリートメントって……何だ……?
 ほぼ勘で乗り切っていたところに、新キャラが登場してしまった。

 ……もしや三種類の洗髪剤の使用を前提に商品が作られているのだろうか。そう考えると、リンスだかコンディショナーだかをしてみても、ごわつきが少し残ったことにも納得がいく。
 煩雑だ。煩雑すぎる。洗髪如きのために、こんな煩雑な手段を踏まなければならないのか。
 猛烈にいつものシャンプーが恋しくなってきた。もういっそ固形石鹸でもいい。固形石鹸で全身洗ってとっとと部屋に帰りたい。

 ――しかしながら、セブルス・スネイプという男は「撤退」という選択肢を嫌う男であった。面倒だの固形石鹸でいいだの何だの言っているくせに、彼は迷わず脱衣所から杖を取り出す。
 こうなったらとことん突き詰めてやる。セブルスは異国の言語を解読するために、素っ裸で杖を振り上げた。




*




 …………。

 お、思っていた以上に楽しんでしまった…………。

 元々の性分、薬品全般に対する興味、その場に流された知的好奇心、……等々。まあそれは色んな要素が合わさった結果、セブルスは思いがけず、長風呂ならぬ長シャワーを楽しんでしまった。
 身体を白いタオルで拭いて、物置の入り口で配られた下着を摘まみ上げる。

 ホグワーツから支給された下着は、セブルスたちの予想よりも何倍もまともなものだった。
 ダイヤゴン横丁の女性用下着専門店のディスプレイが身に着けているような、ひらひらふりふりの華美なブラジャーが来てしまったらどうしようなんて本気で心配していたが、――実際に手渡されたのは柔らかい素材のタンクトップだった。
 パンツも恐れていたようなひらひらしたものじゃなくて、伸縮性のある地味な色のものだった。――レギュラスは抵抗があるとかなんとかでいつものトランクスを履くと言っていたが、生理が来てしまっている以上セブルスはそういうわけにもいかないので、手早く生理用品を広げて手早く下着に装着する。

 ……やはり股に何かつけていると猛烈に落ち着かない。どうしようもない不快感にもぞもぞしつつ、湯冷めしないように急いでパジャマに腕を通した。

「あ」

 パジャマのボタンを全てとめ終えてから、タンクトップを着るのをすっかり忘れたことに気が付く。
 ……面倒だし、着ても着なくても変わらないサイズなのを自覚していたので、セブルスはそのまま部屋に帰ることにした。





「あ、セブルス。遅かったですね」

 物置――もとい浴室を出ると、談話室でレギュラスがシャーロットとトランプに興じていた。

 どうやらゲームはレギュラスが優勢らしい。長い脚を組み、眉をひそめてレギュラスのトランプを吟味するシャーロットは、トランプゲームをしているだけなのに妙に人目を引いている。
 ふと、シャーロットがレギュラスの声につられて顔を上げた。ぱちり、と目が合う。

「――セブ、お帰りなさい!」
「っ」

 端正な顔に笑顔が宿って、セブルスはきゅうと心臓が掴まれたような心地がした。どくどくと耳の裏がうるさい。顔に血が集まっていくのを感じながら、セブルスは精一杯平静を装って「ああ」と応じた。

 ――その途端、レギュラスが地の底から聞こえる魔獣の声よろしくな叫び声を上げながら手札ごと場に突っ込んで、セブルスはぎょっとする。きらきらの笑顔は周囲の生徒に飛び火していたらしい。クリティカルヒットされた生徒たちが、あちこちでぱたぱたと倒れていく。向かいのソファから同学年の監督生が、顔を出して怒鳴った。

「ちょっとシャーロット、あなたまたなの!もう部屋へお戻りなさい!」
「で、でも、まだゲームの途中……」
「もういい加減にして!みんなを医務室に連れて行くこっちの身にもなってちょうだい!」
「誤解!誤解だって!」
「誤解も何もあるものですか!」

 監督生は怒りの形相でシャーロットの首根っこを掴んだと思うと、凄まじい力で女子寮へ連行していく。シャーロットの手元からこぼれたトランプカードがひらひらと床に舞い落ちた。監督生に担ぎ上げられたシャーロットが、切羽詰まった表情でセブルスに懇願する。

「セブ、お願い!助けて!」

 シャーロットの乱れた銀髪から、彼女の青い瞳が縋るように揺れる。
 こんなことを言うのもなんだかあれだが、セブルスはシャーロットやリリーの「お願い」という言葉に弱い。
 拗らせたある種の正義感からだろうか。まぶしい彼女たちから頼りにされるうれしさからだろうか。――「お願い」と言われてしまうと、事の善悪や難易度を吟味するよりも早く口が「わかった」と告げてしまうのだった。

 シャーロットの子犬のような瞳がうるうると揺れている。

 そんな顔でそんなことを言われてしまっては、もう助けるしかない。――まあただ問題があるとするならば、こちらは見るも無残な細腕なのに対し、あちらは180cmはあるであろうシャーロットの身体を軽々と担ぎ上げる剛腕である点くらいだろう。

「……剛腕である点くらいってセブルス、そこが一番の問題でしょう。やめといたほうが身のためですよ」
「レギュラス、良いのか。シャーロットはお前とのトランプゲームをまだ続けたいそうだぞ」
「シャーロットせんぱーい!待っててください!今そこの怪力女から救ってあげますからね!」

 ……ここまでちょろいと逆に心配になってくる。



 ――結果は惨敗だった。もう宣戦布告のせの字も言わないうちに、セブルスとレギュラスは二人そろってカーペットの上に投げ出された。

「……寝るか」
「……そうしましょうか」

 打ち付けた腰も痛いが、周りの生徒からの憐みの視線も大変痛い。
 セブルスとレギュラスは、明日の朝また談話室で落ち合う約束をして別れた。もちろん、やたらと目立つ男性版シャーロットに悪い虫が寄り付かないように警護するためである。


 寝室のベッドで、セブルスはパジャマから覗く自身の細い腕をぼんやり眺めた。
 下腹部の痛みはいつの間にか治まっていた。とはいえ、経血は変わらず排出され続けているので、姿勢正しく仰向けに身体を横たえなければならない。日ごろ横向きで丸まるように寝ていたセブルスは、眠るのに非常に苦労した。ようやく眠れたのは、午前二時を回った頃だった。






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「リンスとコンディショナーとトリートメントに困惑するスネイプ君」というネタストックがついにここで活用されました。

トワレの小瓶
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