2.爪先立ちの恋


 ロージーがレギュラスの異変に気が付いたのは、それからしばらく経った頃だった。

「ねえレグ、少し顔色が悪くない?」
「え?……そうかな」

 レギュラスは平静を装ってそう言ったが、ロージーはレギュラスが首を掻く仕草をしたのを見逃さなかった。――本人は気付いていないようだったが、レギュラスは親しい仲の人間に嘘をついたり誤魔化そうとする時、落ち着きなく首回りや耳に触れたりする癖があった。いつもはそんな癖をほほえましく思っていたロージーだが、今回ばかりは妙な違和感を感じていた。
 もともとレギュラスは色白で、お日様とは無縁そうな見た目をしている(だが、クィディッチのシーカーだ)。しかし、最近のレギュラスは何だか様子がおかしい。心配になるほどやつれてきているのはもちろん、どこか塞ぎ込んでいるような、悩みを抱えているような感じがあった。

「レギュラス、どうしたの。何かあったの?」
「……、ああ。少し、家族のことでいろいろあって」
「……お兄さんのこと?」
「あいつのこともあるけど……実は、少し両親とそりが合わなくなってきて」
「レギュラスが?」

 珍しいこともあるものだ。ブラック家の複雑な家庭事情はそれなりに聞き齧っていたので、ロージーは言葉を失った。レギュラスはロージーにやさしく微笑んだ。

「君は気にしないで。大丈夫だから」

 ――ふと気を抜いたらどこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな微笑みだった。ロージーは急に怖くなって、レギュラスの胸に飛び込んだ。レギュラスは「どうしたの」と驚きながら、ロージーの腰に手を回した。

「――だって……レギュラスの『大丈夫』が大丈夫だったこと、今まで一度もないもの。だから、わたし……」

 クィディッチでひどく転倒した時、「大丈夫」と言っていたレギュラスはなんと全治一か月の怪我を負っていた(魔法薬アリでだ)。階段から落ちそうになったロージーを助けてくれた時も、魔法薬の授業で爆発した鍋からロージーを庇ってくれた時も、シリウスと殴り合いの大喧嘩をした時も、レギュラスの「大丈夫」は決して「大丈夫」ではなかった。

「あ、でも飛行訓練の最初の授業で暴走した箒から救い出してくれた時のレギュラスはとっても格好良かったわ!王子様みたいで、わたし惚れ直しちゃったの。あとね、あとね……」
「……っ、君って、本当に」

 え?と顔を上げると、額にキスされた。――息つく間もなく次々に降ってくるキスの嵐に目を白黒させたロージーがレギュラスを制止しようとすると、途端に唇を奪われて「ちゅ」と濡れた音が響く。さすがに焦ったロージーがレギュラスの胸板を押すと、レギュラスは一瞬ロージーから顔を離して「ん?」と首を傾けた。その色っぽい所作に、思わずどきりと心臓が高鳴ってしまう。

「ちょっとレギュラス、――んっ!」
「なに?キスしながらなら聞くよ」
「そんな、ここ学校っ……!」
「学校だからってロージーはキスしてくれないの?……僕たち恋人同士だろ?」
「あなた最近変わりすぎ……っきゃあ!?」

 ホグワーツ指定の制服の中にレギュラスの片脚が割り込んできて、思わず身体がびくんと揺れる。あわてて口を押えたロージーの顔は真っ赤だ。――レギュラスはごくりと喉を鳴らして、赤く染まったロージーの耳をぺろりと舐めた。

「安心して。ここは防音魔法も効いてるし、人払いの呪文もかけてある。先生方も滅多に来ない場所だよ」
「でも、んっ……ん」
「……ねえダーリン。僕のこと信じられない?」

 そう尋ねると、ロージーはふるふると首を振った。赤くなった瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。

「いやならやめる。……どうする?」
「やじゃない、けどっ……」

 赤い顔でレギュラスを見上げてから、ロージーは困ったように目を逸らして胸元をぎゅっと掴んだ。嗜虐心を煽るような彼女の行動に、レギュラスは我慢できなくて彼女の背中をやわくなぞった。

「……っ……」
「好きだよロージー。……ねえ。嫌じゃないってどういう意味か、聞いても良い?僕とこういうことしても良いって思ってるってこと……?」
「それは……っ、もう!レグ、ってば……!」
「ね、レディ。好きだよ。……続けない方がいい?やめる?」
「……っ……、やめない、で……っ」
「……へえ、そう?」

 どうして、と聞くレギュラスの声はとてつもなくいじわるな響きを孕んでいて、ロージーは心臓がきゅうと切なくなるのを感じた。レギュラスは苦笑いを浮かべて、ロージーにキスを落とした。

「もしかしてだけど――レディ。君って、僕に意地悪されるのが好きだろう」
「……!」

 レギュラスがロージーを押し倒して「……ロージー?」と呼びかけると、ロージーは泣きそうな顔でレギュラスの方へ手を伸ばした。その光景にレギュラスが思わず見惚れていると、――ちゅっと彼女からキスされて、レギュラスは目を丸くした。

「ダーリン、」
「……好きっ」

 酸欠になりかけながら夢中でキスしてくるロージーが心配になって顔を離すと、涙をぼろぼろこぼしたロージーがレギュラスのスリザリンのネクタイをぐいと掴んだ。――確かに煽ったのは自分だが、こうなるとはさすがに予想していなかったレギュラスは内心慌てた。

「ロージーっ……!?」
「レグが好き……っレグのいじわるも好き!ぜんぶ、すきなの!」
「っ、っ……!レディ、君は」

 抑制が効かなくなりそうな感情にあわてて鞭打つ。レギュラスは深呼吸をして、ロージーの髪を撫でながらキスを落としーー彼女のネクタイの結び目をほどいた。




*




 それからもロージーとレギュラスは何度も身体を重ねた。『してる』最中、レギュラスはロージーが「好き」というたびに、眉を下げてロージーに深いキスを落とした。そんなレギュラスの困ったような笑顔を見ると、ロージーはきゅうと心臓が切なくなってしまうのだった。



 ――ある日の午後。レギュラスがロージーに旅行を提案してきた時、ロージーは嫌な予感を感じた。レギュラスが、どこか遠くへ行ってしまうような。レギュラスに、もう二度と会えなくなってしまうような。

「――どこか、行こうか」
「え?」

 日に日にぼんやりと、どこか遠くを見つめるようになったレギュラスが心配で、ロージーは自分たちの『立場』に構わず、毎日レギュラスと一緒に過ごすようになっていた。大イカの水しぶきで彼の声がかき消されてしまったので、ロージーはレギュラスの方を振り返って聞き返した。

「なあに、レグ?」
「イースター休暇にさ、どこか旅行に行こうよ。レディは行きたいところ、ある?」

 以前より、なんだかおだやかな表情を浮かべることが増えた気がする。ロージーは一瞬息を止めてから、――泣きそうになるのを必死で我慢して微笑んだ。

「――わたし、レグがいるところになら、どこにだって行くわ!」





*




 『イースター休暇はレイブンクローの友達の家に遊びに行く』ことにしたロージーは、レギュラスとともにあちこちを旅して周った。レギュラスはロージーが好きそうなお店や観光スポットをたくさん調べてくれていて、ロージーはゆっくり幸せを噛みしめた。

「――わたし、幸せすぎてしんじゃいそう」

 まじまじとマグルの電気製品を観察するレギュラスの後ろでロージーがふとそうこぼすと、レギュラスはぎょっとした顔でロージーを振り返った。

「レディ、滅多なことを言うんじゃないよ」
「レギュラス、好きよ。わたし……本当に、あなたのこと……。言葉じゃうまく伝わらないかもしれないけど、すごく、すごく好きよ」
「……随分熱烈なプロポーズだね?」

 レギュラスは驚いたような顔でぱちぱちと目を瞬かせると、おどけた声で「結婚でもしようか?」と尋ねてきた。

「そうしましょう」
「え?レディ、」

 ロージーはレギュラスの手を掴むと、ずんずんとロンドンの街を歩き始めた。ロージーの突然の行動に慌てたレギュラスは、肩を掴んで彼女を引き留めた。

「レディ、君一体どこへーー」
「魔法省よ。さあ、婚姻届けを取りに行きましょう」
「まさか君っ、本気で」
「……あら。レギュラスあなた、本気じゃなかったってわけ?」

 怒気をはらんだロージーの声に、レギュラスは自分の浅はかさを心から反省した。泣きそうな顔で地面を睨みつけるロージーを、路地裏に引き込む。レギュラスはロージーを抱き締めた。

「ごめん、レディ。僕が悪かった」
「レギュラスはっ……一体、どこに行くつもりなの……っ!」

 ――レイブンクローの彼女の洞察力を舐めていたな、とレギュラスは内心苦笑した。
 分霊箱をすり替えにいく。生きて帰れる保証はほぼゼロと言っていい。……そう言えたらどれだけ良いか。しかし、ひとたびレギュラスが真実を打ち明ければ、彼女がレギュラスについていくと言い始めることくらいレギュラスは予想できていた。――自分がどれだけ彼女に愛されているか、レギュラスはしっかり理解している。だからこそ、レギュラスは真相を彼女に伝えない選択をした。

「僕は」

 言葉を選びながら、レギュラスはロージーの瞳を覗き込んだ。

「……君を守りたいんだ、レディ。君の騎士は僕じゃ役不足?」
「ぐすっ、ぐすっ……。レグの、いじわる……っ!」

 レギュラスのシャツに顔をうずめて泣くロージーに、レギュラスは眉を下げて微笑んだ。

「泣かないで、ロージー。僕は、大丈夫だから。――心配しないで」
「れ、ぐっ……」

 純粋で、きれいで、美しくて、危なっかしくて。ずっと好きだった彼女がこんなにも近くにいて、心から自分を愛してくれている。
 ――別れを前提として彼女に近づいたはずだった。彼女を守るために命を捧げることを決断した時、これで最後と思った瞬間、自分でも驚くほどすんなりと彼女に素直になることができた。夢のような一年だった、とレギュラスは思う。
 『ブラック家の次男』という色眼鏡で見られることに慣れきっていたレギュラスにとって、「小舟で手を貸した」程度でレギュラスに好意を持ったロージーは、正直――少なくとも最初のうちは、面倒でうざったい『穢れた血』でしかなかった。
 しかしいつからだろう。彼女から目が離せなくなって、彼女の日々のちょっかいを学校生活のささやかな楽しみと感じるようになってしまったのは。
 彼女の『最初』の誕生日にはもうすでに好意を持っていたのは確実で。――レギュラスは記憶の奥底を探る。

『きゃあああああ!落ちる!いやあああ!死にたくないっっっ!』
『デュベリー、落ち着きなさい!箒と心を通わせるのです!』
『そんなそんなむりっ……いやああああ!――っれ、レギュラス!たすけてえええ』

 ――ああ、そうだ。いつもファミリーネームでしか呼んでこない彼女が、必死な表情で僕の名を叫んだあの瞬間だ。

「なんで、わらうのっ……」
「――君のこと、好きになった時のことを思い出してた」

 「ほら、君が前『王子様みたいだった』って言ってくれた時の」とやさしく囁きながら、レギュラスがロージーの瞳からあふれる大粒の涙をすくってやると、ロージーは泣きながら笑った。

「わたしなんて、会った時からすきなのにっ……」
「レディには敵わないな。こんなに好きにさせちゃうんだから」
「わたしだってすごく、好きよっ……!」

 あーあ、離れたくなくなっちゃうな、とレギュラスが小さくこぼすと、ロージーははっとした表情でレギュラスを見上げてから、ぽろぽろと涙をこぼして泣きじゃくった。――その時、ぽつぽつと空から冷たい水滴が落ちてきて、あっという間にあたり一面を黒い雲が立ち込めた。レギュラスは魔法で雨をしのごうと杖に手を伸ばしたが、ロージーに止められた。

「どこにも行かないでっ……!」
「でもロージー、このままじゃ君が風邪をーー」

 レギュラスの声は、途端に振り出したスコールの音にかき消されてしまった。レギュラスの存在を確かめるように、強くきつく抱き着いてくるロージーの身体は震えていた。

「違うんだよ、レディ。――こんなふうに、泣かせたかったわけじゃないんだ。本当に、僕は……」

 雨の音の中で、自分の声が震えてゆく。ーー自分が死んだら、この泣き虫の彼女は一体誰になぐさめてもらうのだろう。
 手放しがたいぬくもりを、レギュラスはそっと抱き締めた。

「――ねえロージー。君に渡したいものがあるんだ」





*





 イースター休暇からホグワーツに戻った直後、レギュラスはロージーの前から姿を消した。

 ここ数年『死喰い人』になったという噂がついてまわっていたレギュラスの失踪は、ホグワーツ内外で面白おかしく脚色され、魔法界中に伝聞された。中には聞くに堪えないような下劣で低俗な『作り話』もあったが、「マグル生まれと恋に落ちたレギュラスが『例のあの人』を裏切ろうとしたため、始末された」――という噂に関しては、半分くらいは本当なのかもしれない、とロージーは思っていた。


 レギュラスは結局、彼が成そうとしていたことについての一切の情報も漏らしてくれなかった。唯一ロージーが分かっているのは、「ロージーを守るため」レギュラスがロージーの前から行方をくらませたということだけだった。
 彼は一体何に気付き、どこへ向かったのか。彼の特等席だった図書館の窓際の席でレギュラスのことをぼんやり考えているとーーロージーはふと、彼がよく闇の魔術に関連する本を借りては熱心に読み込んでいたことを思いだした。


 ――まさか。そうか、彼の足跡を追えば、もしかして。



 そうしてロージーは、レギュラスが読んでいた本を片っ端から借りていくことにした。


あったかもしれないいくつかのこと
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