3.淡く青く儚く




 ロージーはあの日、レギュラスに一目惚れした時からずっと、ひたすらレギュラスのことを追い駆け続けてきた。魔法、クィディッチ、決闘――あらゆることでレギュラスに並ぶために血のにじむような努力をし、七年間ずっとレギュラスだけを見つめてきた。

 ――だからものの数か月で、ロージーはレギュラスが出した結論に辿り着いた。


「……レグ」

 卒業式の前日の事だった。
 ロージーはいつもの窓際の席で、ぽとりと羽ペンを取り落とした。書いたばかり文字にインクが滲む。
 『それ』が何なのかはわからなかった。だけど、レギュラスが闇の秘術に関連する何かを破壊するために、どこかへ消えてしまったという推論がーーロージーの眼前に『確かな彼の足跡』として、現れてしまっていた。

 ぱた、と羊皮紙に透明な雫が落ちたのを見て、ようやくロージーは自分が泣いていることに気が付いた。インクで真っ黒になった手で、次々にあふれてくる涙を掬う。生温かい涙が、とめどなく頬を伝う。

「レギュラスっ……」

 無人の図書館に、ロージーの嗚咽が響いた。――こんな時、いつも手を差し伸べてくれていたはずのぬくもりは、とうにロージーの傍から消えていた。





*





 ロージーはマグルの資産家の娘だった。卒業後の進路として『不死鳥の騎士団』への入団を決めた時も、両親はロージーのことを応援してくれていた(魔法界の事情に疎いロージーの両親は、『騎士団』を非政府組織のような何かだと認識していた。あながち間違ってはいないので、ロージーはそれを否定しなかった)。

「ロージー、この後の予定は?」

 本部での会議を終えた後、部屋を出るところでリーマス・ルーピンに声をかけられる。学年は一つ違えどお互い監督生だった縁で、ロージーとリーマスはホグワーツ時代から幾ばくかの交流を持っていた。――おそらく、失踪したレギュラスとロージーの関係を知っているからなのだろう、リーマスは特に入団したてのロージーのことをよく気遣ってくれていた。ロージーは肩をすくめて言った。

「特にありません。今日は真っすぐ家に帰って静かにしていようかなって」
「ご実家には帰らないの?」
「ええ。魔法使いがマグルの実家に出入りするのは危険でしょう?」

 そうか、と言って考え込むようなしぐさを見せたリーマスに、ロージーは首を傾げる。

「――何か任務ですか?」
「あー……いや、そうだな。任務だ。ロージー、今日君はここに泊まっていくといい」
「え?」
「リリー!ジェームズ!」

 パァン!と後ろから大きな音が鳴り響いて、咄嗟にロージーは襲撃かと杖を構える。
 ――もくもくと火薬の匂いの中から登場したのは、新婚ほやほやのポッター夫妻だった。ジェームズがクラッカーを引いて――小気味いい爆発音の後、ぱらぱらとロージーの上にきらきらの銀紙が降りかかる。

「今日の君の任務はとっておきの誕生日パーティーだ!誕生日おめでとう、ロージー!」
「何大騒ぎしてんだよ。仮眠とってるこっちの身にもなれっつーの……おっ。リリー、それもしかしてケーキか?」
「みんなで食べましょう。簡単だけど、チキンも焼いてきたの。ジェームズ、お皿出して。シリウス、あなたはテーブルクロスを持って来て」
「そ、そんな……わたし。どうして、みんな知って……」

 ――今年の誕生日は一人きりで過ごすものだと思っていた。ロージーは何と言ったらいいかわからず、グリフィンドールの一味たちの顔をぐるりと見回して口をぱくぱくさせた。リリーがロージーの肩を抱いた。

「――ね、一人じゃないわ、ロージー。わたしたちが一緒よ」
「さあ、今日は飲んで食って騒いで歌おうじゃないか!」

 まだ本部に残っていた騎士団員たちも、チキンの匂いにつられてぞろぞろとキッチンに集まってきた。それぞれが食べ物やらお酒やらを持ち寄ってくるので、宴は予想よりもずっと長く続き、そしてずっと楽しいものとなった。
 窓の外の不穏な空気を紛らわすみたいに、鬱屈しそうな心を誤魔化すように、騎士団員たちが騒ぎたてる。ロージーもそんな束の間の熱狂に身を浸しながら、時折窓の外の真っ暗闇を見て、心が苦しくなった。――本当に一緒に過ごしたかった相手は、きっともうこの世にはいない。




*




 宴の主役として徹底的に潰されたロージーは、ウイスキーの瓶を抱えて眠っていたところを叩き起こされた。――ガンガンと痛む頭をおさえながらゆっくり目を開けると、スカイグレーの瞳が視界に入って、

「っ!」

 膝から滑り落ちた瓶が、パリン、と砕ける。あやうく破片の上によろめきかけたロージーは、大きな手に肩を掴まれた。苦い煙草の匂いと、ほのかに甘い香水の香り。あまりの衝撃に思うように動くことが出来ず、ぽすん、と誰かの胸に身体をあずけてしまったロージーは、はっとして身を硬直させる。
 ――シリウスブラックが、ロージーを見下ろしていた。ロージーはあわてて体勢を立て直して、ばくばくと音を立てる心臓を必死の思いで抑え込んだ。
 そんなまさか、ね。わかっていたはずなのに、じわじわと絶望がロージーの身体を侵食していく。そんなロージーを見兼ねてか、シリウスは割れた瓶を片付けながら、言った。

「お前が俺を誰と勘違いしたのかなんて、言われなくてもわかる」

 レギュラスよりも少し低い声と、成人男性らしくがっしりした肩。
 ――間違うはずのない勘違いに、ロージーは頭を下げた。

「――すみません、シリウス」
「別にいい」

 ぶっきらぼうながらも気遣いをにじませるシリウスの声に、ロージーは心が少しあたたかくなる。ーー生き様が違っていたとしても、この二人は根本的なところがとても似ているのだ。不器用で、お人好しで、やさしくて。
 そんなことを呆然と考えていたので、ロージーはシリウスの言葉を聞き漏らした。「え?」とロージーが聞き返すと、呆れた声でシリウスは言った。

「――だから、行くぞ。実家に」
「実家って誰の?」
「お前の実家に決まってんだろ馬鹿。マグルのお前と勘当された俺。この組み合わせで俺ん家に行けると思うか?」

 そう言われれば確かにそうではあるのだが、――シリウスの突飛な行動にロージーはうろたえた。

「でも、どうして突然そんなこと?」
「それは……ジェームズとリリーが、今のお前には家族が必要だってさ」

 とんでもないやつらだ、とでも言いそうな表情でシリウスはため息を吐き出す。ロージーの反論を許さず、シリウスはロージーの手を引いて本部を出た。

「お前、だいぶ飲んだだろ?付き添い姿くらましで行くぞ」
「もしかしてシリウスが今日お酒飲まなかったのって、このため?」
「……バーカ」

 シリウスが鼻で笑って、「全員酒で潰れてるとこ襲われたらどうすんだよ」と子供のように笑った。涙ぐんだロージーに向かって、シリウスが恭しくお辞儀する。

「さあお手をどうぞ、マイフェアレディ?」
「……ええ」

 ロージーの涙がぽたりと床に落ちた瞬間、シリウスとロージーは『姿くらまし』をした。寝たふりをして二人の様子を伺っていたリーマスは、やりきれない表情でロージーのいた場所を見つめていた。




*




 ロージーとシリウスが『姿くらまし』した先は、奇しくもいつかのバルコニーだった。ロージーの手を取って優雅に着地したシリウスは、よろめいたロージーを抱きとめる。
 夜から朝に変わっていく最中の空は冷たくて甘くてやさしくて、ロージーはバルコニーから東の空を見上げる。

「――お前、まだ好きなのか」

 ロージーの横に立ったシリウスが、唐突にそう尋ねてきた。ロージーは一瞬驚いてから、微笑んでゆっくり頷いた。

「……うん。好き」
「勘違いするなよ。俺がお前のこと好きだからこういうことを言うとか、そういうわけじゃなくて……あんなやつより、お前にはもっといいやつがいる。お前は見た目も悪くないし、魔女としてもかなり優秀だし、――それに、マグルの中では結構いいところのお嬢さんだろ。パートナーなんて選び放題じゃないか」

 ――癪だけど、あいつの兄として忠告する。あいつのことなんか忘れて、生きろ。真摯な声で、まっすぐロージーを見つめて、シリウスはそう言った。
 こんなところも似ているなあ、とロージーはぎゅっと喉が苦しくなって、深く息を吐いた。

 レギュラスの「好き」の裏側には、いつだって別れの匂いが立ち込めていた。真実に近付いた今なら、確かにわかる。彼はきっと別離を覚悟して、あの日ロージーにキスをしたのだ。――自ら進んで、死ぬ前の最後の一年間をロージーとともに過ごしてくれたのだ。
 ロージーはぽろぽろとあふれる涙を拭いながら、シリウスに言った。

「確かにそうかもしれない。わたしと気が合う人は、レギュラス以外にもたくさんいるかもしれない。――でもね、でもねシリウス。わたしはもう幸せなの。レグに愛された日々を覚えている限り、……わたしね、とっても幸せなの……っ」
「ロージー、お前……」

 ーーシリウスがロージーに手を伸ばしかけたその刹那、生ぬるい風がシリウスのうなじを撫でて、彼はぱっと身構えた。シリウスの後ろで、ロージーも杖を構える。

「クリーチャー……!?」

 煙のようにバルコニーに現れたのは、くたびれたボロ布をまとった屋敷しもべ妖精だった。シリウスに杖を突きつけられたしもべ妖精は、皺だらけの顔から鋭い瞳をぎょろりとロージーに向けた。

「シリウス、彼は……?」
「俺の家の屋敷しもべ妖精だ。――クリーチャー!一体何をしに来た!」

 苦々しい表情のシリウスがクリーチャーの喉元に杖を押し込むと、クリーチャーはロージーを睨みつけた。ロージーはクリーチャーが手に持つそれに気が付いて、思わず後ずさった。

「そんな。クリーチャー……あなた、――まさか」
「クリーチャーはレギュラスお坊ちゃまのご命令を忠実に遂行致します。お可哀想なレギュラスお坊ちゃま。たとえ穢れた血が相手でも、クリーチャーはご主人様のご命令に従います」
「シリウス、待って!」

 クリーチャーを掴み上げたシリウスを制止する。シリウスは迷ったようにロージーを振り返ってから、苛立たしそうにクリーチャーから手を離した。クリーチャーはバルコニーに転がり落ちたが、身体を丸めて『それ』を大切に守り抱えている。ロージーがおそるおそるクリーチャーに歩み寄ると、シリウスがロージーの腕を掴んだ。

「――純血主義のしもべ妖精だ。何か闇の魔術がかかっていたら……」
「いえ、きっと……きっと違うわ」

 ――すぐ傍らにしゃがみ込んだロージーを、クリーチャーはぎょろりと睨みつけた。

「穢れた血、血を裏切る者。ああ、お可哀想なレギュラスお坊ちゃま。お可哀そうな奥様……」
「クリーチャー!」

 シリウスに怒鳴りつけられて、クリーチャーは抱え持っていた『それ』を渋々ロージーへ差し出した。

 ロージーは震える手で、バラの花を受け取る。

 淡い色の包装紙で包まれたそれに、大人びた深緑のメッセージカードが添えられているのを見てーーロージーは泣き崩れた。


「おお、おいたわしい。穢れた血が我がご主人様の名を。汚らわしい、魔法界の膿。血を裏切る者……」
「――クリーチャー、レギュラスは」

 怒りで煮えたぎる感情を必死に抑えて、シリウスは低い声で問うた。クリーチャーはちらりとシリウスを見上げると、恭しく頭を下げる。

「レギュラスお坊ちゃまはもう二度と、お戻りにはなりません。シリウスお坊ちゃま……」

 震える声だったように思う。パチンと音がして、屋敷しもべ妖精はロージーたちの前から姿を消した。

あったかもしれないいくつかのこと
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