4.ゆらめく面影


 実を言うと、シリウスはレギュラスを『憎んでは』いない。弟はただ、家の信条に忠実になるように躾けられていただけなのだから、憎悪の対象としてはお門違いだとシリウスは考えていた。
 だから、シリウスにとってレギュラスは、どうしようもなく愚かで弱くて独善的でーー決して思い出したくもない血縁者の一人に過ぎなかった。見るに堪えない醜態を晒しているのが自分と血が繋がっている“弟”なのだと考えるだけで、シリウスは気がおかしくなりそうだった。
 憎んではいないが、蔑み忌み嫌っていた。――そういう表現が妥当だろう。

 ロージー・デュベリーの騎士団加入が決まった時、シリウスはその決定に強く反対した。唾棄すべき血縁者の『元恋人』を信頼できるわけがないとシリウスは思っていたし――それにホグワーツ在学中、レギュラスにしつこく付き纏う変わり者の噂は幾度となく耳にしていたので、正直なところシリウスはロージーのことを良く思っていなかったのだ。
 再三に渡るムーディからの説得と、リリーの「そんなに言うならシリウス、あなたが好きなだけ彼女を監視すればいいじゃないの!」という言葉で、シリウスは渋々ロージーのことを認めた。

 ――7月のはじめ、騎士団本部に迎えられたロージーを見たシリウスの素直な感想は「こんな女が?」だった。

 身にまとった服は上質なものではあったが、痩せっぱちで口数が少ないロージーはいい意味でも悪い意味でも目立たない存在で、シリウスは拍子抜けしてしまった。


「……うーん。一つ下の学年なら絶対会ったことがあるはずなんだけど。彼女、見覚えが無いぞ」

 あんな子いたっけなあ。ジェームズがそうぼやく横で、リーマスがやけに何か物言いたげにしていたのを覚えている。





 それから数週間、ロージーはムーディと行動をともにしていた。
 シリウスはロージーをレギュラスと同類であるとみなしていたので、稀に本部で出くわしても徹底的に関わらないようにしていた。シリウスの露骨な態度に気が付いていたのか、ロージーもまたシリウスに干渉してこようとはしてこなかった。俯いて簡素な食事を摂り、時間が余れば遠慮がちな手つきで新聞に目を通し、すぐにムーディに呼び出され本部を発つ。他の団員と積極的に交流しないロージーは、ただ『陰鬱な女』としてシリウスの目に映った。




 ――そんなロージーの印象が一変したのは、死喰い人の襲撃に遭った日のことだった。。


 その日、市街地で死喰い人たちから襲撃を受けたシリウスたちは、死に物狂いで攻防を繰り広げていた。多勢に無勢――いよいよここまでか、と思わずリーマスと顔を見合せた瞬間、ムーディの加勢を告げる騎士団員の声が聞こえてきた。

「卑怯者め!このっ、意気地なしの、腰抜けっーー」

 ムーディの姿を見るなり次々に姿を消していく死喰い人たちに、ムーディは怒り心頭といった様子で呪文を打ち放つ。シリウスもその援護に回り、――しばらく経った頃だろうか。最後の死喰い人が足掻きとばかりに住宅の壁を粉々にし、ムーディの放った呪文をすれすれで回避しながら魔法で姿をくらます。

「――はは……命拾いしたな」

 瓦礫の間から這い出てきたリーマスが、力なく笑う。「油断大敵!」と怒声を上げるムーディの後ろで、ロージーがスカートについた土埃を払っているのが見えた。

「ブラック!お前は本部に残ってる騎士団員に報告を。ルーピン、来い!魔法省に事後処理を頼まにゃならん!」
「わかった。じゃあシリウス、また後で会おう」

 リーマスが背を向けたその瞬間。――シリウスは何者かに突き飛ばされて、全身を瓦礫の上に打ちつけた。目と鼻の先へ緑色の閃光が走る。

「なっ……!」

 ぐらつく視界の中で、シリウスは確かにロージーの姿を見た。細腕でシリウスを瓦礫の陰に押し退け、襲撃者へ反撃を繰り返すロージーの表情は、

(嘘だ)

 信じられない。信じられなかった。――死と隣り合わせの危機に瀕しているというのに、シリウスは他人事のように「あんな女だったか」と漠然と思った。
 ――あいつは、あんなに美しい女だったのか。

 いくつかの爆発音が響き渡って、あたりが静まり返る。シリウスは瓦礫の下から身を起こした。『生け捕り』にした死喰い人を捕縛しながら、ムーディがリーマスのシャツを掴み起こす。

「応援を呼ぼう。護送の手が足りん。――ロージー、お前は本部へ戻れ。資料はいつ頃上がるか?」
「夕方までには必ず」
「帰り道には用心しろ。ブラック、お前が付き添え。また襲撃があるかもしれん」

 シリウスは思わずロージーの顔を振り返った。ぱち、と目が合う。

「――無事で、何よりです」

 落ち着き払った声だった。
 シリウスは一瞬戸惑った後、黙ってロージーに右腕を差し出した。ロージーがシリウスに手を伸ばす。二人は『姿くらまし』をした。




*





 シリウスが本部の騎士団員に状況を説明している間、ロージーは物置に閉じこもって一心不乱に何やら作業をしていた。――ロージーがようやくシリウスの前に姿を現したのは、その日の夜だった。ロージーのことが気になって本部に居残っていたシリウスは、――ほうほうのていで帰ってきたロージーを見るなり、思わず椅子から立ち上がった。

「――ああ、ブラックさん。こんばんは」

 ――シリウスと目が合ったロージーの瞳が、一瞬揺れたのは気のせいだろうか。
 気まずい空気が漂う。黙ってシリウスの様子を伺うロージーに苛ついて、シリウスは尋ねた。

「ずっと物置にいたのか?」
「……?いえ。マッド-アイと魔法省へ行っていましたが」

 何かありましたか、と尋ねるロージーの目の下には隈が出来ている。シリウスは髪をかきむしって、ぶっきらぼうに言った。

「お前こそこんな時間に本部に来て、何か用でもあるのか」
「ええ。いくつか追加資料の作成を求められたものですから、ここで作業をしていこうかと思って」

 ガサガサとカバンの中から羊皮紙を取り出すロージーの前に、シリウスはドカリと腰を下ろした。ロージーは一瞬困惑した表情を浮かべてちらりとシリウスを見た後、諦めたように瞳を伏せ、シリウスの向かいで作業を始める。シリウスは頬杖をついて、カリカリと羽ペンを走らせるロージーをじっと見つめた。

 ――しばらく経って、沈黙を破ったのはロージーだった。

「あの。ブラックさん、何か」
「……何だよ。俺がここにいちゃ悪いのか?」
「単刀直入に申し上げます。――あなた、私のことを嫌っておいででしょう?」

 何も言い返せなくて、シリウスはロージーを睨みつける。こうすれば目を逸らされるだろうと思ったのだ。――しかし驚くことに、ロージーはシリウスの視線を受け止め返した。そればかりか、ロージーは凛とした声でシリウスに畳みかけた。

「私はブラックさんの意志を尊重します。だから今まであなたと関わろうとしてこなかったし、あなたの気分を害さぬよう本部に長く滞在しないよう心がけておりました。――だけどこんな広い部屋で、こんな目の前に座られてしまっては……どうにも出来ません」

 何か用があるならおっしゃってください。ロージーの気の強そうな琥珀色の瞳が、シリウスをじっと見据えている。――シリウスは何か妙に引っかかるものを感じて、ロージーの顔を見つめ返した。
 その瞬間、ある日の記憶がシリウスの脳裏に流れ込む。





 忘れもしないあの夏の日。湖の傍で新開発の魔法道具の『実験』をしていたシリウスたちは、本当に悪気なく前方に座っていた女子生徒に『大量の』水をかけてしまった。
 わざとではなかった。シリウスが狙ったのは、彼女の横に座っていた不肖の弟なのだから。ーーいつものきざったらしい調子で膝をついて謝るジェームズとシリウスをちらと見やって、彼女はシリウスの手から魔法道具を取り上げた。

『さっきからキャンキャンキャンキャンうるさいわね。――さあ、取ってらっしゃい』

 咄嗟に抗議の声を上げる二人を冷たく見据え、有無を言わさぬような声で彼女はそう言い放ちーー学生にとって決して安くはない出資金で、苦労してようやく作り上げたそれを、あろうことか湖の中へ投げ入れた。

『わああああ!?君、なんてことを!』
『お前っ、あれにいくらかけたと思って……!』
『――何を言っているの?』

 ぞく、とシリウスの背筋が凍る。ぽたぽたと水滴が垂れる髪の間から、怒りに満ちた瞳がこちらを見据えていた。軽蔑の色が滲んだ琥珀色の瞳に、ジェームズとシリウスは思わず膝をつく。“この女には逆らってはいけない”――そんな予感に怯えた二人は自分の非を全面的に認め、平ぐものようになって陳謝した。

 それ以来、シリウスとジェームズは彼女を『女帝』と名付け、ホグワーツ城内で決して出くわすことのないよう心がけながら学校生活を送ったのだった。


 ――あの時の女子生徒が、目の前に座るロージーと重なる。




 あまりの驚きに、シリウスは椅子ごと後ろに引っ繰り返った。

「お前……お前っ、まさかあの時の『女帝』か!?」
「……あなたたち、私にそんなあだ名付けていたの?」

 センスないわね、と呆れたように言うロージーはまさに『女帝』だった。いやしかし、そんな、――シリウスはロージーの身体に視線を走らせる。シリウスがすぐに気が付くことができないほど、ロージーは記憶の中の『女帝』よりもやつれて面変わりしていた。シリウスは言うべき言葉が見つからず、うろたえた。ロージーは深いため息をついて、シリウスに手を差し伸べた。

「気付いてるものだと思っていました。だから露骨な態度を取っているのだとばかり思っていたけど。――まあでも、あなたが私を避ける理由なんて、数えればきりがないほどあるものね」
「名前と顔が一致していなかったんだ。まさか、お前が……」

 シリウスは思わずそう言いかけて、押し黙った。『女帝』を徹底的に避けていたせいで、まさか弟の恋人がロージーだなんて夢にも思っていなかった。

「……飯食うか?まだだろ」
「お気遣い有難う。でも、大丈夫ですから。夜も遅いですし、ブラックさんはお帰りになって」
「シリウスで良い」
「……シリウス。私は大丈夫ですから」
「何でそんな他人行儀なんだよ」
「あなたこそ、なぜ今日はこれほどまで私に構うのですか」

 気の強い瞳がシリウスを睨みつけた。――ロージーの言い分はもっともだったので、シリウスは素直に謝罪した。

「……今までは本当に悪かった。それからあの時も。お前の気が済むまで、いくらでも殴ってくれて構わない。すまなかった」
「手をお離しください。――あなた、今更すぎるのではなくて?あなたの複雑な事情は確かにお察しいたしますが、私は今更……」

 ふっと琥珀色の瞳が揺れた。まただ、とシリウスは眉をひそめる。ロージーが不自然に目を逸らしたので、シリウスは怪訝な表情を浮かべた。まさか、と思い当たる節に、シリウスは心臓を握りつぶされるような思いになる。

 ――いや……それともただ、怖がらせすぎたせいかもしれない。思い浮かんだ『可能性』を打ち消すように首を振る。
 とはいえ、シリウスは今までの大人気ない自分の態度を思い返して、少し後悔した。罪悪感にかられたシリウスは、ロージーの髪をくしゃくしゃにするように頭を撫でまわした。ロージーは突然のシリウスの行動に混乱して、シリウスの手を向こうへ押しやろうとした。

「シリウス!?」
「随分怖がらせたな。その……本当に、俺どうかしてたよ」

 悪い、と心から申し訳なさそうに謝るシリウスに、ロージーは一瞬驚いた後――ほんの少し表情を和らげて、微笑みをこぼした。『女帝』の人間らしい表情に、シリウスは思わず感心する。


「シリウスは、優しい人ね」

 ロージーが言った。どこか遠くを見るような、寂しそうな顔だった。




あったかもしれないいくつかのこと
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