6.願い、叶わぬ、花散りて



「よう」

 ――キングスクロス駅を出たところで、シリウスがロージーを待っていた。シリウスはロージーにヘルメットを投げると、「乗れよ」と後ろを指差す。

「――ダンブルドアは元気だったか?」
「相変わらずよ。……何だか少し、思い悩んでいらっしゃるような感じだったけど」
「そこらに頭痛の種が不法投棄されてる世の中じゃ、ダンブルドアも悩まねえ方が無理ってもんだろ」
「そうね」

 ロージーがシリウスの背中に顔をうずめる。シリウスはちらとロージーの様子を振り返って、ぽりぽりと右頬をかいた。

「……まさか、ダンブルドアと何かあったのか」
「いえ」

 ロージーが鋭く即答する。
 しばらくの沈黙の後――突然ロージーがシリウスの背中に頭突きして、シリウスは抗議の呻き声を上げた。シリウスの腰に回された腕に、少し力が入る。

「――嘘よ。あった」
「……何を言われたんだ?」

 ロージーは言うかどうか迷っているようだった。シリウスは黙ってロージーの言葉を待った。

「あのね、」
「……うん?」
「ホグワーツに来ないかって。……ポストを用意するから、って」

 排気ガスの混じった風がシリウスとロージーの髪をはためかす。シリウスは言葉に詰まって、掠れた声で「……そうか」と言った。

「栄転じゃないか。最年少記録になるのか?」
「もしも引き受けたらね」
「嬉しくなさそうだな」
「……断るつもりよ」

 だろうな、と呟いた言葉はうまい具合に風にかき消されて、ロージーには届かなかったらしい。「何?」と気だるげに聞き返したロージーに、シリウスはうーともあーともつかない声を出して誤魔化した。魔法使いならきっと誰でも飛びつくようなこの話を、ロージーが断る理由。――シリウスは苛々した様子で髪をかきむしって舌打ちをした。サイドミラーに映るロージーが不思議そうにシリウスを見たので、シリウスは尋ねる。

「――じゃあお前、どうするつもりなんだ。転職活動」
「転職活動って?」

 シリウスの言葉の真意が掴めず、ロージーは首を傾げた。シリウスはさも当然と言った表情で答えた。

「戦争が終わったら俺たち無職だぞ。『手に職つけられるチャンスは全部掴んどけ』って話、前しなかったか?」
「……っ、『戦争が終わったら』って」

 ――事態は日に日に悪化してきていた。毎日魔法使いが行方不明になり、夜ごとに闇の魔術の痕跡と亡骸が発見される。最近はさらに、昼夜を問わず襲撃事件が頻発するようになり、魔法使いたちは単独行動を避けるようになっていた。焦りと緊張と、絶望と失意と、不信と猜疑と。魔法界を席巻するそれは、じりじりと騎士団内すらをも侵蝕しつつあった。――何か些細な火種がまかれてしまったら、途端に谷底へと急降下していってしまいそうな危機感。昨晩だって、騎士団員同士で流血を伴うほどの口争いがあったばかりではないか。それなのに、シリウスは何を。

 押し黙ったロージーを見兼ねて、シリウスが言った。

「お前、魔法省にでも就職したらどうだ。お前くらい優秀ならすぐに昇進できるんじゃねえか?」
「おあいにくさま。わたし、いくつか不動産を持ってるから、しばらくは働かずに済みそうなの。――それにあなた、魔法省を侮っていなくて?あれは魔窟よ。ただ優秀だからって優遇されるわけじゃないわ」
「あーだーだーうるせえな。やっぱりお前みたいな高慢ちきな女は魔法省みてえな欲望と腐敗が権力をサンドイッチしてるような世界がお似合いだよ」
「素敵な誉め言葉ね。有難う」

 ――横腹の微妙に薄いところをとんでもない強さで掴まれて、シリウスは悲鳴を上げる。思わず癖できざったらしい謝り文句をお経のように列挙していると、ロージーがぽすっとシリウスの背中に寄りかかった。交差点にさしかかったところで、信号がアンバーに変わる。

「……シリウス」

 随分と寂しそうな声だった。じわりと浮かび上がったある種の感情に気が付かないふりをして、シリウスは「何だ」とぶっきらぼうに言った。

「いつもありがと」

 ロージーはレギュラスのことを覚えている限り、自分は幸せなのだと言った。――ならばなぜホグワーツに呼び出されたロージーは、傷ついたような表情で帰ってきたのか。
 苦痛を伴う過去の思い出は決して幸福なものではないはずだ。シリウスは同情と憐憫と苦々しさが混ざったような変な気持ちになって、深く溜息をついた。

 シリウスが黙っていると、ロージーが思い出したように「そういえばあなた、赤信号でちゃんと停まるのね」と少し意外そうな声で言った。――シリウスは腹立たしくなって、後ろ脚でロージーのブーツを蹴り上げた。





*





 ――事態が急転したのは、それから半年も経たない頃だった。ダンブルドアが『ある筋』から手に入れた情報のために、ジェームズとリリーがゴドリックの谷へ身を隠すことになったのだ。

 ジェームズ達が騎士団本部に姿を現さなくなった頃から、シリウスは妙にピリピリするようになった。『悪戯仕掛人』のリーダー格が欠けたことで、シリウスとリーマスの仲は徐々に険悪になっていった。

「――そうなの。騎士団も大変ねえ」

 ハリーをあやしながら、リリーが眉をひそめた。ゴドリックの谷のポッター邸で、ロージーは久しぶりにポッター夫婦に会っていた。

「パッドフットもムーニーも頑固だからなあ。僕が何とかしに行けたら良かったんだけど」

 リリーの腕から自分をじっと見つめるハリーにでれでれと頬を緩めながら、ジェームズが言う。悪戯仕掛人のリーダーだった彼も、すっかり父親になっていた。ハリーはロージーが買ってきたおもちゃに手を伸ばして、ジェームズに向かって指をさした。

「それよか見て、僕の息子。本当にかわいいと思わないかい?――痛っ!リリー、何するんだい!」
「本当にごめんね、ロージー。――もう、ジェームズ!あなた向こうでハリーと遊んでらっしゃい!」

 フリスビーを遠くに投げられた犬の如く、ジェームズがハリーを抱えてロージーたちの視界から猛スピードで去っていく。――隣の部屋から聞こえてきた幼子の笑い声に、人は変わるものだ、とロージーは思った。スリザリンを目の敵にし、手あたり次第悪戯を仕掛けていたかつての少年が、あれほどまでに慈愛に満ちた親になるとは。

「リリー、疲れていない?……私に出来ること、ある?」
「まあ。……まあ」

 ロージーの言葉に、リリーが嬉しそうに口元を抑える。ふふふ、と微笑むリリーを訝しげに見つめていると、リリーが言った。

「ロージーっていつもはしっかり者のレディなのに、たまに小さな女の子みたいに不安そうな顔をするのね」
「なっ……!ゲホッ、ゲホッ」

 慌てて紅茶を飲んでむせたロージーの背をさすりながら、リリーが楽しそうに笑った。

「ひ、どい!リリーってば、そんな風に思ってたの!」
「あーあーもうロージーったら、むくれないの」
「そんなんじゃ……っ」
「ふふ。妹みたいに可愛いなって思ってるのよ?ロージーと仲良くなれて、本当に嬉しい」

 きらきらの笑顔でこちらを見つめるリリーに、ロージーは言葉を詰まらせた。――ホグワーツ時代のリリーがグリフィンドールのマドンナとして大人気を博していた理由を、ロージーは今更ながら知った。

「――おい、何ロージーいじめてんだよ」
「あらシリウス。来てたの?」
「今さっきな。悪いか」

 シリウスが「これ、土産」とリリーに大きな紙袋を放り投げる。リリーは袋の中を覗き込んで、シリウスとロージーを見比べた。

「――あなたたち、どれだけ魔法界中のおもちゃ屋さんを繁盛させる気?」
「いくらあっても問題ねえだろ。遊び盛りが2匹もいるんだから」
「うわーおハリー、今度はシリウスおじさんがおもちゃ買ってきてくれたぞ!」

 シリウスの後ろでハリーを高い高いしていたジェームズが、嬉しそうに顔をほころばせる。リリーが呆れかえった表情でジェームズを小突いた。

「あなたったら、せっかく二人が来てくれてるのに」
「いや、今日はただロージーを迎えに来ただけなんだよ。マッド-アイにせっつかれてさ」

 早くロージーを連れ戻して来いってな、とシリウスが言ったので、ロージーは慌ててバックを掴んだ。

「ごめんなさい、シリウス。わざわざ迎えに来てくれたのね」
「おうよ。楽しんでるとこ悪いが、とっとと仕事行くぞ」

 ほれほれ、とロージーの肩を押して玄関まで連行するシリウスを見て、ジェームズが「パッドフットがまーた兄貴ぶってる」と笑う。シリウスの蹴りが飛んで、ジェームズは悲鳴を上げた。

「それじゃ、お邪魔しました。二人とも、本当に気を付けて」
「勿論さ。それに、この家は幾重もの魔法で守られているし……まあ油断大敵ではあるけどね」
「そうね。でもシリウスが『秘密の守人』なら安心よね。――ね、シリウス?」
「え?――ああ」

 ぼーっとしていたのか、シリウスがぽりぽりと首筋をかいてロージーを見た。その時、リリーが思いだしたように手を叩いた。

「そういえば、もうすぐロージーの誕生日ね。……本部にお祝いに行けないのが残念だわ。今度また遊びに来て頂戴ね、その時きっとお祝いするわ」

 ――妙な違和感を感じてシリウスの横顔を見つめていると、リリーが「ロージー?」と肩をたたく。ロージーははっとして言った。

「ええ、勿論よ。――ハリー、じゃあね」

 柔らかい頬に触れると無垢な瞳がロージーを見つめ返して、ハリーの小さな手がロージーの指を握った。その愛らしさにきゅん、と心を掴まれて思わず笑顔になると、シリウスがロージーをおちょくった。

「お前みたいな高慢ちきなエリート女にも子供を可愛いって思う回路がちゃんとあるんだな。――痛えっ!」
「もう一度言って御覧なさい、シリウス。毛根が死滅する呪いをかけるわよ」
「ぐっ……!このっ、クソ女狐め……」
「あーもう二人とも仲良くしなさいよ」
「ハリーの教育に悪いから汚い言葉を使わないでくれないか?」

 肘で小突きあいながら玄関を出るロージーたちを、リリーが笑顔で見送ってくれる。――ロージーはこの時、まさかポッター夫婦の笑顔がこれで見納めになるだなんて思ってもいなかった。




*




『ポッターが襲撃された!』

 マッド-アイの守護霊が伝えた知らせに、ロージーは持っていたマグカップを落とした。ロージーは転がり落ちるように部屋を出て、シリウスがいる部屋に飛び込んだ。物音に驚いて目を覚ましたらしいシリウスが、灯希の手を掴んで言った。

「――どうした、何があった……?」
「マッド-アイからよ!『ポッターが襲撃された』って……!」

 シリウスが仮眠用のベッドから飛び起きて、姿くらましする。ロージーもシリウスの後を追って、本部前の庭に姿くらましをした。バイクにエンジンをかけたシリウスの後ろに飛び乗ると、シリウスが焦ったように怒鳴った。

「お前は付いてくるな!危険だ!」
「単独行動は禁止されているのよ!――それに、今のあなた一人じゃ何やらかすかわからないじゃない!」

 私を連れて行くかリーマスを呼び戻すかどっちか選びなさい、とロージーがシリウスを睨みつけると、諦めたようにシリウスが舌打ちをする。――数分後、ロージーは異変に気が付いた。

「シリウス、道を間違えてるわ。これじゃ、反対方向……」
「違う。間違えてなんかない」

 焦りきっている声だった。見覚えのない場所に下りたって、シリウスは弾かれたようにバイクから飛び降りた。小さなフラットのドアを魔法で破壊したシリウスの後を追って、ロージーも部屋の中に侵入する。

「――ここ、ピーターの隠れ家?」

 どうして、とロージーが尋ねると、混乱したような表情でシリウスが振り返った。まさか錯乱しているのかと冷や汗をかいた途端、シリウスがぼそりと呟いた。

「裏切った」
「え?」
「ペティグリューの糞野郎が、裏切りやがった……!」
「シリウス、落ち着いてちょうだい!」

 ロージーがシリウスの頬を平手打ちする。呆然とロージーを見下ろしたシリウスは、狂ったように笑い始めた。

「シリウスっ……!」
「――俺のせいだ。全部俺のせいだ!どうしてあいつを信頼したんだ……!?」
「――シリウス……あなた、まさか」

 背中を冷や汗が伝う。思い当たることと言えば一つしかなかった。

「ピーター・ペティグリューが秘密の守人だ。あいつがジェームズを裏切った!」

 シリウスが喉を鳴らした。ロージーは再びシリウスの頬を強かに打った。ロージーはシリウスの袖を引く。

「馬鹿シリウス!反省は後よ。早くゴドリックの谷に行きましょう!」
「……っ」

 倒れたドアを踏み越えてピーターの隠れ家を出ると、シリウスが立ち止まった。ロージーはまたシリウスの頬を打とうとして、彼を振り返る。スカイグレーの静かな瞳がロージーを見つめていて、ロージーは思わず息を飲む。

「シリウス」
「――ロージー、お前はダンブルドアとマッド-アイに今回のことを報告してくれ。いいか、危険を冒そうとするな。何があっても自分の身を守れ。出来るな?」
「え、ええ……シリウス、でも!」
「……あーあ、寂しくなるな」
「――シリウス?……っ!」

 シリウスがロージーを抱きしめた。――突然のことにロージーは面食らって、言葉を失ってしまう。痛いほど力強くロージーを抱きしめたシリウスは、ロージーの肩に顔をうずめた。ロージーがシリウスの腕の中から、ぷはっと顔を上げると、ーースカイグレーの優しい瞳が、ロージーを慈しむように見下ろしているのが見えた。シリウスがぽんぽんとロージーの頭を撫でた。

「……俺、本当にお前が可愛くて仕方なかったんだぜ。気が強いかと思えば変に危なっかしくてさ。それに料理は出来ねえわ人遣いは荒いわ、おまけに男の趣味まで悪いと来た」
「シリウス、やめて」

 ――ロージーは顔を青くして、ふるふると首を振った。

「嫌よ、やめて!どうしてそういうこと言うのよ!そんなまるで、お別れみたいに……!」
「うーん?何でかなあ」

 シリウスがぽりぽりと首筋をかいた。――ロージーの愛した彼も、嘘をつく時落ち着きなく首元を触る癖があった。ロージーはシリウスにしがみついた。

「駄目、シリウス!行かないでっ!」

 ぼろぼろと涙をこぼすロージーの髪を、シリウスはゆっくり撫でた。――親愛に満ちたその優しい手つきに、ロージーは顔を歪める。

「……こんな泣き虫な妹分、これから誰が慰めてやるんだろうなあ」

 そう笑うシリウスのスカイグレーの瞳が寂しそうに揺れた。――他の誰でもないシリウス・ブラックの瞳に、ロージーの泣き顔が映っていた。





あったかもしれないいくつかのこと
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