7.花に惑う



 お誕生日おめでとう。どうか、ずっと幸せに。


 端正な文字で綴られた深緑のメッセージカードを、ロージーはコートの内ポケットに仕舞いこむ。コンコン、とドアを叩くノックに返事をすると、キングズリー・シャックボルトが顔を覗かせた。

「――ロージー、時間だ。……本当に行くのか?」
「ええ、勿論。十年前、一匹一匹大切に捕まえてあげた死喰い人たちを鑑賞できるなんて、最高な機会だわ」

 大臣に感謝しなきゃね、とロージーは不敵に笑って事務机から立ち上がる。キングズリーは困ったような顔でロージーのトランクを持って、ため息をついた。

「――まったく、ダンブルドアも大変な魔女を魔法省に送り込んだものだ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 ――魔法戦争終結から十年後、ロージーは魔法省の魔法法執行部で働いていた。連絡用紙飛行機を器用に避けながら、ロージーとキングズリーは魔法のエレベーターに乗り込む。たまたま乗り合わせた見知った顔に、ロージーは表情をほころばせた。

「アーサー、御機嫌よう」
「おお、ロージー。――どこかへ出張かな?」

 ガラクタのような金具を両手いっぱいに抱えたアーサー・ウィーズリーがロージーに微笑みかける。

「そうなの。ちょっとアズカバンへ視察に」
「アズカバン!?」

 キングズリーがロージーを小突いた。ロージーは小声で「何よ、明日にはみんなに知られることでしょう?」と反論した。アーサーは目を白黒させながら、驚いたように言った。

「こりゃたまげた!くれぐれもディメンターには気を付けるんだぞ!」
「ええ、ありがとう。――ああそうだ、そういえばあなたの末の坊や、今年ホグワーツに入学するのではなくて?おめでとう」
「その通り、やっとこさね!学問に出費は付き物とはいえね、いやはやもっともっと稼がないと……」
「今度入学祝いもかねて顔を出すわ」
「喜んで!モリーにも伝えておくよ。――おっと、それじゃ」

 チン、とベルの鋭い音が鳴って、アーサーがよろよろとエレベーターを降りていく。アーサーの姿が遠ざかって、キングズリーがようやく口を開いた。

「――ロージー、彼は?」
「マグル製品不正使用取締局のアーサー・ウィーズリーよ」
「いや、それは知っている。意外な交友関係を持っているなと思って」
「ああ……ほら、私マグル生まれでしょう。たまにマグルの世界のことを教えてあげているのよ。家電とか、電車の乗り方とか、あと……」

 再びチン、とベルが鳴って、今度は魔法大臣が乗り込んできた。コーネリウス・ファッジは、ロージーとキングズリーを見比べてほうと嬉しそうに唸った。

「やあやあ働き者の諸君!君たちがよく働いてくれるおかげで魔法省は今日も安泰だ。さてロージー、御機嫌いかがかな、うん?」
「光栄ですわ、大臣」

 ロージーはにっこり微笑む。ロージーの手を握ろうとするファッジを、キングズリーがエレベーターのボタンを押すふりをして阻止した。




*




 寒くて冷たくて、凍えるようだった。寒さを感じているのは身体だけではなく、ロージーは心から何かがするりと抜け落ちていくような感覚に襲われた。

「ロージー、しっかりしろ」

 ふわりと暖かいもので包まれる。はっと顔を上げると、キングズリーが呆れかえった表情でロージーを見下ろしていた。キングズリーの守護霊の呪文に感謝しながら、ロージーは軽口を叩いた。

「寒いわね。ふふ、すっかり希望を失ってしまったわ」
「――まったく君は、恐るべき根性をしているな」
「そうかしら。――そうかもしれないわね。私って、世界一肝の座った魔女だわ」

 ――アズカバンの冷たい床を踏みしめながら退屈な報告を聞くその傍ら、ロージーは抜け目なく周囲を観察していた。
 魔法で守られているはずなのに、手指がぶるぶると震えそうになる。黴臭いにおい、凍り付いた床、むせかえりそうになるほど湿気た空気。――『普通』に生きていたら感じることのない『よどみ』に、ロージーは深く息を吐いた。

「――……担当官!」

 ロージーは手を挙げて、冗長な報告を遮る。

「受刑者の様子を確認したいのですが?――視察ですから、大臣がお喜びになられるような『土産』を持ち帰りませんと」

 ロージーは男の手をそっと握って、にっこりと微笑んだ。男は顔を赤らめて居ずまいを正しながら、上ずった声で言った。

「な、なるほど!それもそうですな。受刑者にご希望は?」
「そうね。半分は顔見知りだから、正直誰でも良いのだけれど……私手ずから受刑者を観察したいんです」
「は、さようでございますか」
「――でも、そうね。『手加減』しないためにも、極悪人にしてもらえたら助かりますわ」

 ロージーは男の耳元でささやいた。ロージーの目論見に見事引っかかった男は、書類を取り落としながら薄汚れた牢を指し示す。

「でしたら、シリウス・ブラックはいかがでしょう!あいつこそ世紀の極悪人ですぜ」
「あら。それはとっても素敵ね」

 どうぞ、と男がシリウスの牢の前までロージーを案内した。
 煤けた薄暗い牢獄の隅に、すっかり変わり果てた姿の男が倒れ伏している。ロージーがさびついた牢を蹴ると悲鳴のような音が響いた。――闇の中から、スカイグレーの生気の無い瞳がロージーを見上げる。

「御機嫌よう、ブラック?――この、裏切り者め」

 吐き捨てるようにそう言ったロージーが、シリウスを魔法で弾き飛ばす。骨と皮のような身体が壁に打ち付けられて、力なく崩れ落ちた。シリウスを痛めつけるロージーの後ろで、キングズリーが冷笑していた。




*




「デュベリー女史、そろそろそれくらいに……」
「……?ああ、死なない程度にという話だったわね。この辺で終わりにしておきましょう」

 ロージーはにっこりと笑って汚れたスカートを魔法で清める。血だまりの中で、黒い塊になったシリウスがロージーを睨みつけていた。――途端、飛び起きたシリウスが弾かれたように立ち上がって、牢の間から手を伸ばしてロージーの足首を掴んだ。キングズリーが一歩前に踏み出す。

「――ロージー」
「下がりなさい、キングズリー。彼の言い分を聞いて差し上げましょう?」

 ロージーはシリウスの手を蹴りはらった。みずぼらしく痩せ細った手を踏みつけて、緩慢な仕草で膝をつく。ロージーは微笑んでシリウスの顔を覗き込んだ。

「―――――……」

 渇きの中ですっかり嗄れ果てた声だった。

「……っ」

 ロージーが目を見開いたその瞬間、ガシャンとシリウスが牢の隙間から手を出して、ロージーに掴みかかろうとした。――すかさずキングズリーが間に入って、シリウスを魔法で突き飛ばす。

「……は、何で、……」

 ロージーは肩を上下させながらこちらを睨みつける、落ちくぼんだ眼を呆然と見下ろす。――ふつふつと何かが込み上げてきて、ロージーは声を上げて笑った。

「まだ……まだ呪詛を吐く元気があるなんて、なんて報告しがいのある男かしらね!」
「まったく……君は向こう見ずにもほどがある。間抜けな理由で死ぬ願望でもあるのか?」
「まさか、キングズリー。私、まだやりたいことが沢山あるもの。こんなところで死ねないわ」

 魔法で磔のように宙に浮かせられたシリウスが、おぞましい呪詛の言葉を叫んでいるのが聞こえた。――その時、下で待機していた役人が帰船の時間を告げる。ロージーはキングズリーに促されて、その場を立ち去ろうとした。

 ――しかしロージーは足を止めて、ふと後ろを振り返る。

「……くれぐれも、その痛みを忘れないことね」

 見る影もなくしなびた幽鬼のような男の瞳に、『執着』の色を認めたロージーは満足そうに微笑んだ。





 ――帰途につく船の中で、ロージーはぼんやりと荒波を見つめていた。どす黒い色の波、黒く濁った空。ロージーはふと目の前に座る相棒に声をかけた。

「ねえ、キングズリー」
「何だ」
「……私、実はね。今日誕生日なのよ」

 キングズリーはふむ、と一瞬動きを止めてからおざなりに手を叩く。

「それは大変めでたいことで。誕生日に出張とは、君もとんだ災難だな?」
「……あのね。祝意がまるで伝わらないのよ、あなた。――まあでも、誰かに誕生日を祝ってもらうのなんて久しぶりだわ。ここ何年かとっても忙しかったもの」

 あなたと一緒に来れて良かった、とロージーが呟く。キングズリーはおぞましいものを見たかのような表情を浮かべた後、「らしくないな」と肩を竦めた。ロージーはまた窓の外に視線を戻して、あの『執着』に満ちた瞳と、か細く掠れた声を思い出していた。

「――何を企んでいるかは知らんが、くれぐれも大臣の前でその顔はするなよ」

 キングズリーがロージーのトランクからブランケットを引っ張り出して、無造作にロージーに投げつけた。ロージーは甘んじてそれを顔面で受け止めると、ふっと笑みをこぼした。

「……何も聞かず、黙ってついてきてくれてありがとう。感謝してるわ、キングズリー」
「報連相の不徹底など、今更だろう」

 キングズリーがシニカルな笑みを口の端に浮かべる。ロージーは目をつむって、耳元で囁かれた言葉を反芻する。――牢獄の中でも私の誕生日を忘れないなんてね、シリウス。あなたってとっても、愚かで優しい人だわ。




*





 二年後、ロージーはホグワーツにいた。この年、シリウス・ブラック逃亡の対応策として、魔法省が吸魂鬼をホグワーツへ派遣した。「汽車」の中での事故発生の報せを受け、ロージーは魔法大臣に付き添って校長室に足を運んでいだ。

「――こう話していても埒が明かん!アルバス、君は吸魂鬼に代わる『代替策』を我が魔法省へ提案できるのかね!」
「じゃからコーネリウス、わしからは何度も魔法省へ打診して……」

 怒鳴るファッジから少し離れたところで、キングズリーとロージーは不毛なこの口論が終わるのを待っていた。――ふとおもむろに、キングズリーがロージーを肘で小突く。ロージーは眉を顰めて「何?」と肘で小突き返した。キングズリーは首を振って、ファッジの方をアゴで示す。
 ――キングズリーが言わんとしていることを理解して、ロージーがキングズリーの脛を蹴った。そんな二人をファッジ越しに認めたらしいダンブルドアが、ロージーに声を掛ける。

「何かロージーが言いたいようじゃの。ファッジ、彼女に発言権を与えても?」
「好きにしろ!――ロージー、何だ!」

 顔を真っ赤にしたファッジがロージーを振り返る。ロージーは薄くため息をついて、前に進み出た。

「――では。まず、お言葉ですが閣下。それ以上のホグワーツへの『ご指摘』は、魔法省の越権行為に当たるかと存じます」
「何だと……!?」
「……失礼ながら、教育機関たるホグワーツにはある種の独立権が与えられています。閣下の今のお言葉は、ホグワーツの自治権……ひいてはホグワーツの最高責任者であるダンブルドア校長の権利を侵害するものと同等かと。――しかし」

 声を荒げかけたファッジを、ロージーは片手を挙げて制止する。

「魔法省には、この国に居住するあらゆる魔法使い・魔女を守り、彼彼女らの生命を脅かす存在を排除する『義務』が御座います。魔法大臣の『ホグワーツへの吸魂鬼派遣』はその義務を忠実に守るために決定されたものであり、正当な方式をもってして定められたこの決定を覆す権利は」

 ロージーはダンブルドアに視線を走らせた。ダンブルドアはしばらくロージーを見つめたのち、静かに頷いた。

「――ホグワーツの学長にはありません。よって私は、お二人の『議論』を不毛なものであると判断いたします」


あったかもしれないいくつかのこと
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