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「風影様、わざわざお越しいただいて、お手数をおかけします」

「いや、こちらこそすまないな。言っていた書類は、」

「はい。こちらに。私共で記入しておきましたので、あとは判を捺していただければ手続きは完了です」


風影邸から歩いて十数分といったところの役所に到着し、入るや否や偉い立場にあるんだろう人が駆け寄って来て応接室に通された。
さすが風影、婚姻届けを出すだけでこんな対応されるのかと、内心驚いている内に、目の前のテーブルに一枚の書類が差し出される。


「名前、此処に拇印で良い。捺してくれ」


拇印?と一瞬疑問に思ったが、なるほど私は印鑑など持っていない。
はーいと言葉軽く返事をし、いざ親指を書類と一緒に差し出された朱肉にあてがいながらなんとなく書類に目を通して見ると、それはもう必要事項が全て書き終えられていた婚姻届で。


「え、自分たちで書くんじゃ無いの?」


親指を朱く染めたまま、目の前にいる役所の人に質問すると、風影様ですからとあっさり返される。
ほお、至れり尽くせりって訳ですか。
婚姻届というのは二人できゃっきゃうふふしながら書くものであって、書き間違えたどうしよう〜とかなんとか言いながら書くものだと思っていた。
必要な書類も集めないといけないし、たった一枚の書類を書き終えるだけでも体力使うと、以前結婚した会社の同僚が言っていた気がする。

でもまあ、世界も違うし、私なら緊張のあまり間違えまくって届けが何枚あっても足りなさそうだから、書いてくれてるのはありがたい。


「此処で良いんですよね?」

「はい。そちらにお願い致します」


拇印なんて、人生で捺したことが無いので勝手があまり分からなかったが、グ、と力を込めて指定された場所に親指を押し付けると、朱い指紋が転写された。
おお、と何の感動か、自分の指紋をまじまじと見ていると、お使いくださいと指を拭くための布が手渡されたので、それを受け取り朱くなった親指を拭った。


「捺印ありがとうございます。これで入籍が完了致しましたので、晴れてご夫婦となられました。おめでとうございます」


ニコ、と景気のいい笑顔を向けながらおめでとうと言われる。
意外にもあっさりと終わった手続きだが、その笑顔で今まで何となく霧がかっていた実感がはっきりと、それでいてストンと胸に落ちた。
きっと他の皆も、役所の人のおめでとうございますの一言を聞いて初めてちゃんと実感するんだろうななんて思った。


「帰るぞ」

「あ、うん」


ジワリとした実感に浸っていた私の手に我愛羅君の手が重なって、意識が現実に引き戻される。
私が捺印した書類を片付けながら役所の人も立ち上がり、応接室の扉を開けてくれた。


「お気をつけて」

「ああ、世話をかけた」


後ろでお辞儀をする役所の人を振り返り、軽く会釈をしながら我愛羅君に連れられ役所を後にし、応接室から繋ぎっぱなしの手をジッと見る。
腕を一方的に引かれたり引いたりすることは今までに何度かあったが、こうやって手を繋ぐのは初めてかもしれなくて、我愛羅君と繋がれた手だけ、特別に暖かい。


「どうした」

「ん?いや、手、大きいね。もう大人じゃん」

「当たり前だろう」


繋いだ手に少し力を入れてみると、珍しく少し笑いながら握り返してくれて、何だか無性にもっと我愛羅君の手に触りたくなった。
半歩前を行く我愛羅君を呼び止めて、振り向いてくると同時くらいに手の甲に微かなリップ音を出しながらキスしてみる。

多分我愛羅君の顔は真っ赤だろう。朝の仕返しだと言わんばかりの笑みを零しながら、どれ、赤くなった顔でも見てやろうと、手の甲に唇を寄せたまま斜め上を仰ぎ見た。


「っ」

「…顔が赤いけど?」


どこかで聞いたセリフを吐きながら、予想した通り、耳まで赤色に染まっている我愛羅君の顔を覗き込むようにして見ていると、唇に寄せていた我愛羅君の手に力が入ったのを感じて、そのすぐ後、少し引っ張られたと思ったら同じように手の甲にキスをされた。
一部始終を見て今までニヤついて少し細まっていた目が開かれるのを自分自身で感じて、我愛羅君と同じように耳にまで熱がこもっていく。


「ちょ、外だから」

「先にしたのは名前だろう」

「いや、ま、そうだけど」


時間にして数秒だったと思う。
それでも私から視線をそらさずに手の甲に唇を寄せる我愛羅君を見ていると、まるで時間が止まったみたいに感じて身体も石みたいに動かなくて。

気づいた時には、行こうと言いながら背を向ける我愛羅君がいて、繋がれた手を引かれるがままにその背中を追いかけた。

我愛羅君に外でこういう悪戯をするのはもう辞めよう。