08 最後まで嘘つきでいてね
彼女が泣き止まない。
俺はどうしたらいいのか分からなかった。狼狽(うろた)えるばかりだった。彼女が何故泣いているのかさえ分からなかった。泣いているなまえ以上に困っているのは俺かもしれない。
彼女の目から涙が滴り落ちる。その度に彼女が目を擦る。それでは爛(ただ)れて荒れてしまう。慌てて、俺はテーブルに置いてあったハンカチを彼女に差し出す。部屋の元主であるオリジナルの私物でも構うものか。
それでも、彼女の涙は溢れて止まらない。彼女の手は、俺の服を握っていた。何に苦しんでいるのだろう。何を嘆いているのだろう。
ああ、そうか。俺のせいか。俺には心当たりがあった。昼間、彼女を泣かせてしまったのは、俺だ。
「なまえ……すまない」
なまえに俺は謝った。だが、彼女は首を横に振った。違う、違う、と。
俺のせいではない、ということだろうか。原因はなんだ。オリジナルか、はたまた彼女を取り巻く人間か。
どうした、と訊いてはみるものの、彼女は首を横に振るだけだった。こんなに泣きじゃくるなまえは、見たことがなかった。いつも彼女は笑っていた。悲しくとも、泣くことは決してなかった。
宥(なだ)める術(すべ)を、俺は知らない。どうしたら、どうすれば。彼女の苦しみを少しでも和らげることは出来ないのか。なまえの悲しみを癒すことは出来ないのか。
――『優しく抱き締めてやるといい。人間は、それだけで安心する』
どうすればよいか分からない俺の脳に、言葉が降りた。恐らく、オリジナルであるジュリウス・ヴィスコンティのものだろう。今はそんなことどうだっていい。彼女が少しでも落ち着いてくれるのなら。なまえが少しでも楽になってくれるのなら。
俺はそっと、なまえを抱き締めた。なまえの嗚咽が、止んだ。頭を撫でてやると、なまえは、俺の胸のところに当てていた手を、ゆるゆると背中に回した。
どれくらいの時間が経ったのだろう。時計の針は、深夜1時を指している。明日――もう今日になってしまったが――は、なまえは非番ではない。こんな時間まで起きていて大丈夫なのだろうか。後で、休暇届を出させなければ。
「……夜遅くまで起きていて、大丈夫なのか?」
なまえを優しく撫でながら、俺は問うた。彼女の体温が心地よく、温かい。彼女も、自分と同じく、生きているのだと、そう感じられる。
彼女は、首を横に振った。
「……大丈夫じゃない。全然、大丈夫なんかじゃない」
なまえは、答えた。また泣き出してしまいそうな、消え入りそうな声だった。
「なら、何故……」
「眠れなかった」
なまえは、ぽつり、ぽつり、と、話し始める。
「ジュリウスを忘れてしまいそうで怖かった。大好きな大好きなジュリウスが、私の心から消えるんじゃないかって、怖かった」
なまえは、やはり、俺とオリジナルを重ねて見ていた。俺は胸が痛んだ。嫌悪感しか持てないオリジナルを、今なお彼女は愛している。愛されているのは代替品の俺ではない。
「でも、」
彼女は続ける。
「そんなときに、君が来て、ジュリウスが帰ってきたみたいで、でも君はジュリウスであってジュリウスじゃなくて、怖くなった。君をジュリウスの代わりみたいに捉えることが、とても、怖くて」
俺は面食らった。なまえが俺を避け、嫌っていた理由が、同一視したくないからだったということに、俺は、衝撃を受けた。
「そしたら、私がちっちゃい頃に出会ったジュリウスは君で、ブラッドの、家族の一員になってから愛したのは螺旋の樹の中に居るジュリウスで、私は、私は」
なまえは自分でも何を言っているのか分かっていないのだろう。
そして、嘘を吐いた自分が、こんなにも憎らしい。嘘を吐くと、後に暴かれるというのは、本が教えてくれた。彼女が勘違いしてくれていればそれでよかったのかもしれない。そうだ、俺は、なまえに幸せになって欲しい。ただ、それだけだ。それだけなんだ。
「なまえ、笑っていてくれ」
俺は、なまえの頬に触れて、懇願する。泣き出しそうな彼女に、懇願する。
「何なら、俺をオリジナルの代わりにしてくれたって構わない。だから、どうか」
「代わりになんて出来ないよ」
なまえは俺の言葉を遮り、言う。その目からは、雫が滴りおちた。
「貴方に、代わりなんて居ないよ、ジュリウス」
俺はそのとき、なまえが、俺を呼んだのか、オリジナルを呼んだのか、分からなかった。
「……だから、少しの間だけ、もう少しの間だけ、嘘を吐いていて。お願い」
私が、眠れるように。そう言って、彼女は俺に体重を預けた。
俺は、彼女の額にキスを送る。恋人が恋人に行うように。俺は、確かに彼女を愛していたんだ。
title)レイラの初恋