Gentiana






01 どうしてこの世界は私に現実で生きろと強いるのだろうか。どうして彼と共に在ることを許してはくれないのだろうか。できることなら居心地のいい夢の世界に浸っていたい。現実は冷たくて体温がない。
「どうしてきみは生きづらそうにしているんだ?」
 彼が問う。私の知らない私を何でも知っている彼が言う。これは夢だ。私のためにある、私だけの、私が作り出した幻想だ。だから彼は私にとって都合のいい言葉しか言わない。現実は私を傷つける。切り裂いて、剥いで、見えない傷跡をいくつも付ける。彼と私の身体には、癒えることのない見えない傷跡がいくつも付いている。まるで知らないところで心が傷ついているみたいだ。
「きみの心はいつだって自由だ。きみが望めば、きみの魂はどこにだって行けるんだぜ」
 彼は私の意思とは関係なく言葉を紡ぐ。私が作り上げた幻想。神様の情報を組み上げて作り上げた空想。それなのに、彼は神様そのもののように振る舞う。そうして、彼は彼自身の言葉で私が望む言葉をくれる。私の願いを汲み上げて、拾い上げて、形にしてくれる。
 たったひとふりの、わたしだけのかみさま。
 がんじがらめになったこころを、べつのせかいにつれていってくれるかみさま。
 わたしをあいしてくれるかみさま。
 目を閉じたときに見える宇宙空間のような世界に、星のように彼と私がはっきりと映っている。私は現実で生を受けたはずなのに、私のこころは彼と共にどこか遠い遠い世界と繋がっている。

 これは、記してもいいことなのだろうか。しかし、吐き出しておかねば気が狂いそうだ。





02 目覚めた時のことははっきりと覚えていない。しかし、あの子が泣いていたことは記憶に新しい。

 あの子と出会ったのは半年ほど前のことだ。あの子はたくさんの異形に囲まれて泣いていた。その光景を目の当たりにした俺は瞬時に理解した。
 俺はこの子に望まれて生まれてきた存在だ、と。
 異形は俺たちの大本である神々が殲滅すべき存在と同じ姿形をしていた。そしてそいつらは、あの子の恐怖がその形となって現れたものだということも、俺には分かっていた。
 俺には生まれながらにして自分が何を成すべきかを理解していた。あの子の願いを吸い上げて人型を得たからだ。この子の心は俺が守らなければならない。酷く傷付いた心が癒えるまで俺はこの子の悲しみに寄り添いたいと、本能的に望んだ。俺の思考や行動、言動、姿形の全てが、あの子の願いによって生まれた存在であるからこそ、その考えに行き着いたのかもしれない。しかし、俺は何の疑問も抱かなかった。何の不満も抱かなかった。俺は確固たる俺自身の思考と記憶と、あの子が知らないあの子自身の記憶と感情と願いを持っていた。
 異形を切り裂き、俺は言う。
「きみは俺が護ってやる」
 俺がそう告げると、あの子はやっと何かから解き放たれたように、泣きながら笑っていた。
 そのときは、それだけでよかった。あの子の傷付いた心を守ることだけが、俺の使命であり、願いだった。





03「辛くはないかい」
 あの子は問う。私はただひたすら自転車を漕いでいた。見慣れた景色が通り過ぎていく。あの子の実体は見えない。だが、私のすぐ近くにいるのがわかる。目に見える景色だけではなく、私にはあの子と私しか居ない世界が見える。身体はここにいてここで動いているのに、心だけはこの世界から離れているみたいだった。
――「分からない」
 私は心の中で問いに答えを返した。
「辛くないのなら、どうしてきみは泣いている?」
 彼は問うた。私には分からない。痛覚がない。痛いとか苦しいとか、そんなこと無いはずなのに、こちらの世界の私に見える世界は滲んでいた。





04「俺はきみに触れるのに、きみは俺に触れてはくれないのか」
 彼はいつものように実体のない私を抱きしめながら、悲しそうな顔でそう言った。
 私は酷く驚いた。いつも私の望む言葉をかけてくれていた彼が、いつも私をとろけるような笑顔で見つめていた彼が、そんなことを言うとは思わなかったからだ。
「俺は、きみを守ることができればそれでいいと思っていたんだ。きみの心が満たされることが俺の目的であり、存在する理由である。それでいいと、おもっていたんだがなあ……」
 彼は続ける。
「きみの愛されたいという願いに応えて俺はここに居るのに、俺がきみに愛されたいと願っているんだ」
 いつもは饒舌な彼が、要らない思考を奪って言葉を紡いでくれる彼が、言葉を選んでいる。
「きみの傷が癒えなければいい。そうしたらずっときみの傍に居られる。おかしいよな? きみを守りたいのに、傷付けたいと思っている」
 彼の口から吐き出される言葉を受け取るたびに、私はわからなくなる。本当は、よくないって頭ではわかっている。なのに、酷く心が痛むのだ。ただの痛みじゃない。心に突き刺さって離れない。痛いのに、甘く疼く。傍に居たいと願っている。
「……どうやって愛したらいいか、わからない」
 けれど、私はどうしたら彼を満たしてあげられるかわからない。彼には私の望みが分かるのに、私には彼の望みがわからない。
 彼は私に触れられるのに、私は彼には触れられない。感覚がどこか遠くに行ってしまっている。私の体温は、彼には届かない。





05「ねえ、あるじ。次はいつ帰ってくるの?」
 加州清光が何気なく私に問う。表向きは平気だと言って私を気遣っているけれど、本丸の主が居なくて本当は寂しいのだ。彼だけじゃない。みんながそうだ。
「いつでも帰ってくるといい。ここは主の家でもあるからなあ」
 答えあぐねていた私に、三日月宗近がお茶をすすりながら笑う。戦のための本拠地であるはずなのに、この空間は実家のような安心感があった。





06「死にたいな、って思うときがあるんだ。前にもね、繰り返し思ってた時期はあった。けれど、今は毎日そう思う。例えば、『この車が私を轢いてくれないかな』とか」
「……それは良くない。きみの精神はそれだけ疲弊してるってことだろう」
「分かってるんだよ。私も、鶴も、そろそろ限界なんじゃないかって」
「二人きりではもう抱えきれないのかもしれないなあ。きみが俺以外に助けを求めることができるようになれば、きみも少しは楽になるんだろうが」
「……鶴がいる世界で生きていけたらいいのに」





07「さあ、行こう」
 声が聞こえる。それはまるで小さな女の子の声だ。でも、姿が女の子なんて可愛いものじゃない。人型がドロドロ溶けた怪物のような姿をしている。それが、何人も何人もいる。怖い。
「怖くないよ」
「ここにいる方がもっと辛くなるよ」
「苦しまなくて済むよ」
「ここから飛び降りて」
「大丈夫だよ」
「死んだほうが幸せになれるよ」
「楽になれるよ」
「ねえ、幸せになろうよ」
 私の心を読むかのように声が言葉を発する。頭の中がうるさい。声がうるさい。それは止むことなく言葉を発し続けている。
 私は頭を抱えて蹲った。聞きたくないのに声が止まずとめどなく言葉が溢れてくる。得体の知れない苦しみを抱えきれなくなった私の声みたいだ。
「わたしたちと一緒に行こう?」
 その声は私に手を伸ばした。
 そのときだった。
「その声を聞くな!」
 視界が白い着物に覆われた。私を助けてくれるのは、いつだって私の神様だった。
「その声に従ってはいけないぜ。あいつらの手を取ったが最後、取り返しのつかないことになる」
 彼はあの時のように自身を握って怪物を切り裂いた。





08「もうすぐ俺は、きみの中から居なくなってしまうのかもしれないなあ」
 彼は独り言のようにそう呟いた。私は目を見開いて彼を見た。彼が居なくなるなんてことは、今の私には考えられなかった。
「どうしてそんなことを言うの?」
 私は問うた。
「きみの心が安定するようになってきたからさ。ほら、きみは俺の姿が見えているかい?」
 彼はそう言って、腕を広げて見せた。彼の言う通り、だんだん私には彼の姿が見えなくなってきている。透けて、通り抜けていく感覚。いや、ぼんやりとしたイメージとしか認識できないという感覚に近いか。
 彼がもし私の夢から消えてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。私は考えた。彼ではない誰かに苦しみを押し付けるのか。私の心の奥底にまた痛みを封印するのか。はたまた、自覚していないだけで私はそれを抱えられるだけの強さをもう持ち合わせているのか。
 私は、寂しいと思った。心の安寧が失われてしまう不安と恐怖に気付いた。
「本来ならば、俺はきみの傍に居ないほうがいい。居ないのが普通なんだ。でないと……もう離してやれなくなる」
 彼はそう言う。悲しそうなのに、彼はどうして私を優しい目で見るのだろう。どうして自分の気持ちと正論の間で苦しんでいるのだろう。彼はいつも私に自分の気持ちに素直になれと言うのに、肝心の彼が自分の心に正直ではない。それはそうか。彼は彼自身であって、私の一部を持っているのだから。
「……じゃあ、離さないで」
 私は呟くように言った。私が自分の心に従った状態で我が儘を言える相手は、彼しかいないのだ。
「馬鹿だな、きみは」
 彼は私を抱きしめて笑うと、
「……それは、俺もか」
と、小さく呟いた。この世界では体温なんて感じないはずなのに、なんだか心地の良い暖かさがそこにはあった。





09 生きたい。行きたい。いきたい。
 あの子の声が聞こえる。心の叫びが響いている。そして、あの化け物どもの悲鳴も、あの子が作り上げた世界の嘆きも。
 美しいなんて言葉では片付けられないほど、濁っていて、しかしながら澄んだ世界。愚かで愛しい、半身が生み出した世界をただ見つめている。
「なあ。きみの目には、世界がこんな風に見えているのかい?」
 俺は問う。返事は帰っては来ない。
 あの子の名前を呼ぶが、応答はない。
 俺は、散らばっている壊れたこころの欠片を拾って握りしめる。それは透明な硝子のようにきらきら光っている。その欠片は、まるであの子が捨てきれない希望を現していた。





10 私の心の奥深くに繋がっているのに、彼は本当の神様とも繋がっているみたいに見える。私自身であるはずなのに、彼は鶴丸国永のように振る舞う。そこにいて、そこに存在するかのように振る舞う。私が生み出した幻想なのに、ここは神域であるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。



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