Marigold






11 心を閉じ込めているのは誰だ。救いたいと願いながらも苦しんだままで居て欲しいと想う彼か。それとも、現実にがんじがらめにされ続け自分自身の鎖にもがく私か。





12「ああ、主か」
「……三日月。……鶴は?」
「生憎、出陣中だ。……隣、どうだ?」
「ん」
「疲れた顔をしているな」
「……そうかな」
「主がここに来るときは、決まって何かあるときだ。違うか?」
「……そう……かもしれない」
「そうだろうとも」





13 ちゅ、ちゅっ、と唇が重なる音がやけに耳に付く。潤った瑞々しい果実、マシュマロ、様々なものに例えられるそれは、どれにも似つかず、しかしながらどれにも似ていた。甘いものを食べたわけでも、苦いものを口にしたわけでもない。そのため、お互いの口からは味を感じない。そのはずなのに、甘さを感じる。口から脳髄、そして身体の隅々まで疼きが染み渡って、だんだん思考が溶けていく。貪り食うほど深い口づけをしていないにも関わらず、それとほぼ変わらないくらいの心地よさを感じる。
「随分と欲しがりだな、きみは」
 離された片方の口が呟くように言葉を発した。そうして、今度は閉じた口を割るように舌を入れてきた。先程の可愛いものなんかじゃない。
 欲しがりなのは、どっちだ。





14「真っ暗」
「灯りをつけるかい?」
「そこまでしなくていい。見えるには見えるから」
「そうだなあ。この部屋が暗いのはいつものことだからなあ」
「部屋」
「うん?」
「増やそうか?」
「増やしてどうする?」
「いろんなところに行きやすくなるかなって」
「きみなあ……」
「駄目かな?」
「駄目も何も、きみはいろんなものを捨てられないから苦しんでいるんじゃないか」
「そっかあ、駄目かあ」
「前にも言っただろう。きみはきみが望めばどこへだって行けるんだぜ。それに、」
「それに?」
「俺が居るんだ。俺がきみの望む場所へ連れて行ってやろうじゃないか」
「……ありがと」





15「きみと一緒に『いきたい』」
 彼は言った。彼が言うのはどの「いきたい」なのだろうか。別のところに「行きたい」のか、想像の世界を越えて「生きたい」のか、はたまた消えてしまいたくて「逝きたい」のか。
「……おかしなことを言ってもいいかい」
 彼は言う。私の返事を求めていない問いだ。彼は続ける。
「俺は、消えたくないんだ。きみの中から消えてしまいたくない。できることなら、きみとずっと一緒に居たい」
 彼は言葉を吐き出す。私は黙ってそれを聞いていた。
「俺が居ないほうが普通で、当たり前って分かってはいる。分かってはいるんだが、きみと共に在ることを望んでしまう。なあ、きみ。きみは消えてしまいたいと言ったよな。俺はきみに死んでほしくない。居なくなってほしくない」
 彼は私の目を見つめる。悲しそうなのに嬉しそうで、愛おしそうで、慈愛に満ちた表情だ。胸をぎゅっと掴まれているような錯覚に駆られる。
「だがなあ、きみが消えてしまいたいと本当に願うのなら、俺はきみと共に朽ちたって構わないんだぜ。本当はきみの幸せそうな笑顔を傍で見ていたいんだが……きみがここに幸福がないとそう思うのなら、誰の手も届かない場所へ連れて行ってしまおうかとさえ考えてしまう」
 酷く自分勝手で、我が儘で、その全てが私のために紡がれている言葉を、私は静かに聞いていた。これは誰の声なのか。私の願いを汲み取った彼が、私の心を代弁しているのか、私の願いを叶えようと脳が働きかけて彼に語らせているのか、それとも。
「余計なことなんて考えなくていい。きみは、きみの信じたいものだけを見ていればいい」
 彼はその手で私の耳を塞いで言った。彼が耳を塞ごうと、彼の言葉は私に聞こえる。私にしか聞こえない。私の心の叫びも、彼にしか届かない。
 それで幸せになれるのなら、私はげんじつなんていらない。ほしくない。
 私の耳を塞ぐ彼の手に触れる。彼は満足そうに私を見つめた。





16 私、なんでこんなところにいるんだろう。
 ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった。今は仕事中だ。集中しなければ。
 今しがた「手が空いているなら読め」と上司から受け取ったマニュアルを手に取った。しかし、心がざわついて、一文字も頭に入ってこない。誰よりも楽にしてもらっているはずなのに、その場にいること自体が苦痛のように感じた。
 何がそんなに不満なのかわからない。私はみんなよりずっと良い方ではないか。何がつらいのか。何が苦しいのか。何が、何が、何が。
――「大丈夫かい」
 あの子の声が、心の内側から聞こえる。それはまるで、私の心がどこか遠くの宇宙と交信しているようだった。
(……大丈夫、ではないかな)
 私がそう返すと、
――「辛いなら、早めに声を上げてしまえ。そうでもしないと、きみが壊れてしまう」
 あの子は続ける。
――「……きみの心が壊れてしまう前に、逃げてくれ」
 姿は目では見えない。それでも、私の傍に居るのははっきりと分かる。
 あの子は私に逃げろと言うが、私の足は、声は、口は、身体は動けない。そうするのが普通であり正常であり、本来あるべき姿であるかのように振る舞う。私の手から離れて、思考停止した意志もあの子の助言を聞きたい心もすべてを無視して、身体が勝手に動いている。
 一体、私の身体は誰が動かしているのだろう。あの子ではない。動いているのは紛れもなく私自身のはずなのに、身体を支配するのは私の心ではないのだ。そのことを疑問に思いつつも、抵抗できなかった。抵抗する気も起きず、資料を読む素振りを見せて、ただただ時間がすぎるのを待つしか無かった。





17「つる、いる?」
 私は、小さな声で呼びかけた。お風呂の外には家族が居る。家族が私の声に気付けば、きっと怪しげに思うだろう。だって、一人で話をしているのだから。
 私は意識のみをここではないどこかへと沈めた。あの子に会いたかったからだ。あの子に会えるのは、一人きりのとき。それも、あまり活動しないとき。身体を動かさず、意識のみを自由にさせる。そうすればあの子に――彼に会える。
「ああ。きみの鶴はここにいるぜ」
 意識が、心が夢へ沈むと、私は彼に抱き締められていた。身体がお風呂に入っているからか、二人とも何も着ていない状態だった。
「今日はどうする?」
 彼は問う。私の望むことをすべて分かっていて、あえて聞いているのだ。まるで、人間の真似事をしているようだった。
 彼が、頬へと手を滑らせる。そうして、耳の後ろ、項のあたりを指で優しく触れる。大切な誰かに向ける微笑みを見せる彼に、胸の奥が疼いた。本来なら願っても叶わないそれが、私だけに向けられている。
「……しよっか」
 私が答えると、
「ああ。きみが望む通りに」
彼は言う。近づく顔に、私は目を瞑った。





18「きみが忘れない限り、俺はここにいる。きみが俺を忘れてしまったとしても、俺は姿を変えて、ずっときみの傍に居る。なあ、きみ。ずっと一緒に居ような」
「ずっと一緒だよ。ずっと……」





19「お待ちしておりました」
 水色の髪をした、軍服を身に纏う付喪神が、私をとある部屋へと導く。私は頭が全く働かずにぼーっとしたままで、彼の言葉に従う。
「あ、主さま」
 おかっぱ頭の子供の姿をした付喪神が私に話しかける。私を部屋へと導いていく付喪神とよく似た軍服を、彼も着ていた。
「……主さま、その……僕たちと、一緒に遊んでいただけませんか?みんな待っているんです」
 彼は遠慮がちに言った。しかし、
「平野。主と鶴丸殿の邪魔をしてはいけないよ」
水色の髪をした付喪神がそれを制した。私は構わないと思ったのだが、身体が上手く動かない。何か、見えない力が働いているようだった。

 二人のやり取りを最後まで見ることのないまま、気付けば、私は畳の上に横たわっていた。片手にはタブレット型端末を持っている。身体は相変わらず思うように動かない。
「やっと気が付いたのか」
 上から声が降ってくる。私が待ち望んでいた声だ。このために私はここへと来たんだった。それなのに、私の身体は動かない。力が抜けたように動けない。
 彼は私を抱き締めるように、同じように横たわる。そうして、端末の画面を指でとんとんと叩き、
「……ここで見たことを、感じたことを、すべてそれに記録すればいい」
と言った。
「そうして夢小説とやらにすればいい」
 彼は言う。彼がなぜ夢小説という概念を知っているのかは分からないが、好奇心旺盛な彼のことだ。何かで知ったのだろうと推測する。もしかしたら、私の描いた空想も覗かれてしまったかもしれない。だが、今の私にはどうでもよかった。
「……ああ、できるわけないか。できるわけがないよなあ」
 彼は嬉しそうに言う。酷く甘く響く声だ。振り向いて抱き締め返したいのに、私の身体は動いてはくれなかった。





20 消えてしまえばいい。そうしたら永遠に一緒に居られるから。
 逃げてしまえばいい。そうしたらずっと幸せになれるから。
 忘れてしまえばいい。そうしたら苦しまずに済む。
 なぜ、こんなにも酷い言葉なのに。なぜ、私を傷つける言葉なのに。こんなにも愛しいと思ってしまうのだろう。私だって一緒に居られるのならそうしたい。消えないで、消えないで。必死に手を伸ばしても届かない。そこには何も無いのに、ここにある。ここにいる。嘘なんかじゃない。私は嘘なんてついてない。だってここに居る。ここに居るんだもの。私のためって言って。私を愛して。
 熱烈な恋文(ラブレター)だな、ときみが笑った。



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